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2020/01/30 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜7〜 — モヘ(靺鞨)族とウスリースク市地区における彼らの遺跡 —

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-mohe.htm

2020/01/30 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜7〜
          — モヘ(靺鞨)族とウスリースク市地区における彼らの遺跡 —  

=====渤海という国は、高句麗が滅亡したことが契機となり、靺鞨人たちが中心となり建国した国のようですので、靺鞨人に関する箇所も訳してみました。断続的に連載している「秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国」シリーズですが、7番目に当たるこの記事が、順番から言うと最初に来るべき内容です。====

[モヘ(靺鞨)の部族]
中世の諸資料は、7つの大きなモヘ(靺鞨 まっかつ)地域・部族結合(部)(靺鞨7部)があったことを物語っている。それはそれぞれ、スモー(粟末 ぞくまつ)、ボードー(伯咄 はくとつ)、アンチョーグー(安車骨 あんしゃこつ)、バイシャン(白山 はくさん)、ハオシー(号室 ごうしつ)、ヘイシュイ(黒水 こくすい)、ファンニエ(払涅 ふつでつ)靺鞨と呼ばれた。どの部族の土地にラズドーリナヤ川が流れていたのかは、今日判断することは困難だ。様々な学者が推測しているのは、スイフン(訳注:綏芬河。1972年からラズドーリナヤ川という名称になる)は、ボードー(伯咄)、ヘイシュイ(黒水)、あるいはファンニエ(払涅)部の土地を流れる可能性があるということだ。モヘ(靺鞨)結合(部)の首領たちは、お互いの仕事に干渉しなかったが、戦いの危機が起こった場合には、団結した。

沿海州におけるその他の部族結合(部)では、ハオシー(号室)靺鞨が住んでおり、彼らは日本海沿岸を占めていた。これら以外の部族は、満州に住んでいた。

モヘ(靺鞨)の考古学的遺跡は、それぞれの他の部と関連づけることは困難だ。考古学的資料が語ることが出来るのは、他の誰の影響も受けなかった靺鞨人たちや、ポーリツェ文化(オリガ文化)(訳注:沿海州における考古学的学術用語で、初期鉄器時代の終わり頃に属する、アムール河岸、沿海州、北東満州に住むツングース・満州人たちの考古学的文化を言う。発掘されたポーリツェ集落、オリガ集落から名付けられた)から影響された靺鞨人たちが沿海州に存在したことだ。

[モヘ(靺鞨)人の歴史より]
モヘ(靺鞨人)たちは急速に目立った政治勢力となり、隣国人たちが彼らのことを話題にしたが、これらの部族の完全な歴史を記録した人はいない。知られているのは断片のみだ。

597年、中国(隋)の皇帝ウェン・ティー(文帝)は、朝鮮(高句麗)の王タン(湯=平原王)を、モヘ(靺鞨人)や隋の家臣たちを迫害したとして非難した。恐らく6世紀末、靺鞨人たちと朝鮮人たちとの関係は難しいものだっただろう。しかし、自分たちの庇護者である中国に対して、靺鞨部族は常に敬意を払っていた訳ではない。598年、1万の靺鞨騎馬隊が中国(隋)の遼西に侵攻した。

モヘ(靺鞨人)の助けを借りて、641年、朝鮮人(高句麗)たちは、強い勢力を持つシュイエントゥオ(薛延陀=6~7世紀にかけて中央ユーラシアに分布したチュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の有力部族の一つ)部族と同盟を結ぼうと試みた。すぐに中国(唐)と朝鮮の国コグリョ(高句麗)との間で戦争が勃発し、この戦いでは、モヘ(靺鞨)は朝鮮(高句麗)側で戦った。

この戦争での英雄的ページの一つは、朝鮮(高句麗)のアンシ(安市城)の防衛戦だったが、そこでは5万人の靺鞨人たちが参戦した。中国(唐)の大軍が80日間この街を包囲し、それは買収された朝鮮軍の指導者の一人が夜に門を開くまで続いた。中国人たちは、敗残者たちを残酷に懲罰した。彼らの戦利品は、7万の甲冑、10万の家畜、数多くの捕虜だった。3万人の朝鮮人捕虜は放免されたが、3千人の靺鞨人が生き埋めにされた。このようにして中国人(唐)たちはモヘ(靺鞨人)を罰したのだ。この戦いは645年に起こったが、5年後に中国(唐)と朝鮮(高句麗)の間で平和が調印された。

コグリョ(高句麗)人たちとモヘ(靺鞨人)たちは、他の隣人たちに対処するために、この平和を利用した。654年、頻繁に靺鞨の土地に侵入していたキダーニ(契丹)人たちを攻撃し、シンチェン(興城)を占領した。一方で656年には、南朝鮮の国シルラ(新羅)の35の城を占領した。シルラ(新羅)は中国(唐)の同盟国だったので、中国人たち(唐)との戦争が再び勃発した。668年コグリョ(高句麗)が崩壊した。多くのコグリョ(高句麗)人たちがモヘ(靺鞨)の地に逃げた。間もなくモヘ(靺鞨)族の多くが唐に服従することを余儀なくされた。

しかし、30年後中国(唐)は、隣国に次々と敗北を喫して苦しむ。最初はチベット人たち、次に契丹人たちが唐の軍隊を打ち破った。唐の領土をチュルク人(訳注:トルコ人、アゼルバイジャン人、ウズベク人、カザフ人、キルギス人、バシキール人その他のチュルク語系民族の総称)たちが荒廃させる。

この機を利用し、モヘ(靺鞨)人たちは活発な軍事行動を展開する。特に激しく行動したのは、スモー部(粟末部)の首領たちで、その中で名を馳せたのはツィスィ・ビユィ(乞四比羽 こつしひう、きつしひう)とツィツィ・チョンシャン(乞乞仲象 こつこつちゅうしょう、きつきつちゅうしょう)だ。靺鞨人たちを自分の側に引き入れようとして、中国(唐)人たちは、これらの首領に称号を授与した。ツィスィ・ビユィ(乞四比羽)はシュィ(許)国公に、ツィツィ・チョンシャン(乞乞仲象)はチェン(震)国公になった。

まもなく中国人たちは敵たちを打ち負かし、モヘ(靺鞨)鎮圧に着手した。強力な軍隊が靺鞨の土地に押し寄せた。まもなく、シュイ(許)は崩落した。ツィスィ・ビユィ(乞四比羽)は捕らえられ、斬首された。ツィツィ・チョンシャン(乞乞仲象)は、自分の義勇兵たちと共に山に逃れる決断をした。疲労困憊した中国人たちはまもなく、チェン(震)国公の追跡を停止した。しかし、ツィツィ・チョンシャン(乞乞仲象)の健康はすっかり損なわれ、彼は死を迎えようとしていた。新しく公になったのは、彼の息子のツオロン(祚栄 そえい)だった。ツオロン(祚栄)は自分の権力を強化して、かつてのシュイ(許)公国の領地を併合し、歴史上渤海の名で知られる独立国の王であると宣言した。

[ウスリースク市地区におけるモヘ(靺鞨)の遺跡]
ラズドーリナヤ川の盆地は、靺鞨人たちにとって非常に都合が良かったようで、彼らはここに集まってあちこちに住んだ。恐らく、ここの盆地にはいくつかの部族が住んでいた。隣同士に位置したいくつかの小さな村は、それぞれの部族に属するものだった。

ウスリースク市地区では、これまでに考古学者たちによってモヘ(靺鞨)集落の4つのグループが明らかになっている。遺跡のうちの一つのグループは、ラコフカ村の近くで発見された。ここではラコフカ集落-10の発掘が行われた。住居と屋敷が発掘された。大量の食器、日常生活道具類が発見された。

遺跡の他のグループもラズドーリナヤ川の支流、ラコフカ川で見つかった。これらの集落は、チミリャゼフスキー村、ミハイロフカ村、ワシーリエフカ村の周辺に位置している。ここには、最も大きなモヘ(靺鞨)集落の一つであるミハイロフカ-2があり、50以上の住居を有していた。

第三のグループは、クグキ村とコルサコフカ村の間にある地域を占めている。この場所では、小さな集落に加えて、靺鞨人たちによって、ポーリツェ時代から残っていた要塞が築かれたが、それは、土城・待避壕に作り直されていた。危険な場合、ここに隠れることが出来た。コルサコフカ-16集落では、道の跡が残っている。これは沿海州で最も古い道路の一つだ。ここには二番目に大きいモヘ(靺鞨)集落、コルサコフカ-41が存在する。もう一つの小さな集落グループはクロウノフカ川の盆地にある。ここにある集落カーメンヌィー・クリューチ(石の泉)は、変わっている。その集落のために靺鞨人たちは、山脈の支脈の先端に、四方を岩で塞がれた、独立した頂きを選んだ。この場所では、防衛のための造営物をもはや建てる必要は無かった。

ウチョースノエ村近郊でも一つの集落が知られている。ここでも、他の場所でも将来、ウスリースク市区や市近郊の他の靺鞨人居住跡が発見される可能性がある。ウチョースノエ-4の発掘の際には、史跡の下層部から二番目の層で、紀元後5世紀と推定される、靺鞨の陶器が見つかった。

モヘ(靺鞨)人たちは、ウスリーの地に早くから定住していたらしく、渤海建国の前も、建国後もここに住んでいた。ミハイロフカ-2の集落は、4世紀末と推定されている。ラコフカ集落-10は、7世紀半ばと推定されている。この集落の住民たちは、アンシ(安市城)崩落の同時代人だった。

ウスリースク市地区は、モヘ(靺鞨)人たちによって活発に開拓されたが、年代記に書かれたような大きな出来事からは離れて、ずっと外側にあった。

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  1. 2020/01/29(水) 23:54:00|
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2020/01/09 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜6〜 — 渤海滅亡後の渤海人 —

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-bohaipost.htm

2020/01/09 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜6〜
                   —  渤海滅亡後の渤海人 —

[壊滅後の渤海人]
(契丹によって)粉砕された渤海人たちは、自分たちの敗北を受け入れなかった。旧王国の様々な場所で、反乱が次から次に発生する。926年、キダーニ(契丹)は征服した土地にドンダン(東丹)という国を作り、その国王にキダーニ(契丹)皇帝の長男トゥュイ(突欲=耶律突欲ィエリュイ・トゥュイ)が就いた。ドンダン(東丹)の統治下に入ったのは、渤海の若干の土地だけだった。トゥュイ(突欲)が新しい国を統治したのは短期で、930年には、自分の弟を父の王座に就かせないためにリャオ(遼)に移った。沿海州の土地はドンダン(東丹)には入らなかったが、リャオ(遼)に従属した。

渤海人たちを分断するために、キダーニ(契丹)は彼らを征服地から帝国の別の場所に移住させることにした。リャオ(遼)のカンチョウ(康州??)区は、渤海時代のシュアイビン(率實)府から移住した渤海人たちで作ることを、シー・ゾン(世宗)皇帝(947~951年)が定めたことは知られている。

渤海人たちは、あらゆる方法で自分たちの独立を復活させようと試みた。929年には、ダ(大)王族の代表者たちが後渤海国を宣言した。938年には、渤海の名門リエ(烈)一族が今の北朝鮮の地でジンアン(定安)国を宣言した。ジンアン(定安国)は長く独立を保てる運命には無かった。ウ(烏)氏を名乗る後渤海の大将は、この国を征服し、実質的に二つの国を統治し始めた。彼は渤海の旧上京を新たに復興した。後渤海は、長年に渡ってキダーニ(契丹)への戦いの前衛だった。

他の場所でも渤海人たちは、自分たちの独立を回復しようと試みた。いくつかの年代記は、北西渤海国に触れている。最後に渤海人たちは、1116年に大渤海を作り、自分たちの国家体制を復活させようと試みたが、その国は数ヶ月しか存在しなかった。

[契丹への抵抗]
リャオ(遼)に対する活発な闘争は、契丹人たちに渤海人たちを完全に征服することを許さなかった。侵略者たちによって作られたドンダン(東丹国)でさえ、独立してはいるが属国だと見做されていた。ドンダン(東丹国)の統治者たちは、渤海王たちがそうであったように、独自の統治モットーを持っていた。この国では、積極的に渤海の官吏たちを使用した。これら全てのことで、渤海人たちの抵抗を弱体化しなければならなかった。

後渤海もジンアン(定安国)も、 最初の30~40年はリャオ(遼)に対して積極的な戦いは行わなかった。それは力を蓄積する時期で、隣人たちとの関係を樹立した。975~987年にかけて渤海人たちは旧東京をキダーニ(契丹)人たちから奪還しようと試みた。976年にはリャオ(遼)に対する勝ち戦をした。この時迄に渤海人たちは、ジュルジェニ(女真)人たちと同盟の合意に漕ぎつけようとしている。これを予期してキダーニ(契丹)は982年、リャオ(遼)帝国に組み込まれていたドンダン(東丹国)を廃した。

渤海人たちの増強を危惧したキダーニ(契丹)は、ジンアン(定安国)を粉砕する決断をした。983年、彼らはこの国に対する攻撃を成功させた。多くの人々が殺され、住民二千人が朝鮮に逃げた。これは渤海に対する最初の懲罰的討伐軍だった。キダーニ(契丹)はジンアン(定安国)を征服しようとしたが、かろうじて騎馬隊が接近出来ない山々が、完全な壊滅から渤海人たちを救った。

これらの行動を通じて、渤海人たちの抵抗を摘み取ることが容易でないことを理解したキダーニ(契丹)は、渤海人たちに対する新たな討伐軍を入念に準備し、985~986年、ジンアン(定安国)を壊滅させた。生き残った渤海人たちは、ジュルジェニ(女真)人たちや中国人たちと同盟を結ぶことが出来、再びリャオ(遼)に対する戦いを開始する。988~989年、キダーニ(契丹)は、ジンアン(定安)の地に第三次討伐軍を送る。今度は人々を一斉殺戮し、集落を焼き払い、戦利品を分捕った。990年キダーニ(契丹)はさらに別の討伐軍を組織し、渤海人たちの抵抗を最終的に打ち砕いた。キダーニはジンアン(定安国)の北部の土地を征服し、朝鮮軍は南部の土地を占領する。

この後、百年以上渤海人たちはキダーニ(契丹)の支配下で暮らした。

[ウスリー市区におけるこの時代の史跡]
沿海州では、契丹人たちの居住跡は見つかっていない。この時期にここに住んでいた渤海人たちは、比較的独立を保っていたが、契丹人たちに賦課を支払った。賦課は不定期に送り届けられた。

10~11世紀の具体的資料を伴った定住地が、ザゴロドノエ村近くで発見されている。発見されたのは、まだ渤海時代に出現し、渤海国の滅亡後にも存在し続けた大きな集落だった。同様の定住地は、クロウノフカ村-アブリコソフスコエ村とパヴリノフカ村近郊(図中1)、コルサコフカ村とボリソフカ村-コルサコフカ村の間(図中5)でも発見されている。この時代、ウチョースノエ定住地(図中4)も存在し続けた。南ウスリースク土城跡でもこの時代のいくつかの遺物に出会う。後期ジュルジェニ(女真人)が自分たちの町を、渤海後(初期の女真)の定住地に建設した可能性もある。

渤海人たちの経済活動や生活は、以前のまま残っていた。ただ貨幣と瓦の模様の変化だけが、この時代と別の時代の定住地を見分けることを可能にする。

======昨年の11月に秋田市の高清水岡を訪れた際に、渤海人が使ったという古代水洗トイレ遺構を見て、渤海人は本当に豚を常食としていたのか、などという実にお粗末な興味から、このテキストを訳し始めましたが、とうとう渤海国が息の根を止められるところまで来てしまいました。国は滅びてしまいましたが、渤海の中心的役割を担った靺鞨人は、女真になり、女真は次に自ら満州人と名乗り、あの清という国を作りました。沿海州に取り残された女真は、今のウデゲ人、ナナイ人、エベンキ人、オロチ人などの先祖となったそうです。

結局、渤海人は牛、豚を頻繁に食べていました。イノシシも豚も基本的に同じものだけれども、安定的に食料にするのは飼育した家畜でしょう。渤海人は定住して主に農耕を営む民だったのでした。ついでですが、ロシア語で中国のことをキタイと言いますが、これは契丹のことだったのだと今回再確認しました。=====

  1. 2020/01/09(木) 02:33:00|
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2019/12/20 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜5〜 — 渤海の国家組織と社会構造 —

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-bohaigos.htm

2019/12/20 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜5〜
             — 渤海の国家組織と社会構造 —

=====このテキストを書いている人たちは、ウスリースク市の「若き考古学者のクラブ《予備隊》」で、指導者はアレクサンドル・レオニードヴィチ・メーゼンツェフとアンドレイ・ヴィクトロヴィチ・ブルドーノフとあります。

私はウスリースク市には、かつて訪れたことがありますが、確かにアジア的な顔つきをしていた人たちが非常に多かったです。食堂に入りパンを食べた同行者の一人が、あまりにも硬いパンで歯を折ってしまったことを思い出します。また下記に出て来るハンカ湖にも偶然寄りましたが、岸辺一面に葦が生えて風が吹き荒ぶ、寂しいところだったと思い出します。向こう岸など見えない、広大なあの湖の周りに渤海という国があり、栄えていたのかと少し感慨深いです=====

[行政機構]
渤海が誕生した最も初期の段階に国を統治したのは、王自身や最も力のある首領たちであったとすれば、(3代目の王)チンマオ(欽茂)の時代になると、官位システムが現れた。官吏になるためには、あるいは自分の地位を上げるためには、試験を受けなければならなかった。渤海の試験に関する情報は残っていない。しかし、行政機構の多くを渤海から真似たキダーニ(契丹)では、主要な試験科目は、弓道と詩歌だった。恐らく、同じようなものが渤海にもあったのだろう。

国の最高権力は、王(渤海人たちは彼をケドゥと呼んだ)に属した。王権を譲渡する明確なシステムは無かった。王権は、父から息子に、兄弟から兄弟に、おじから甥へと譲渡された。国の全ての重要な職は、王族や最も名門の氏族の代表者たちが占めた。ドゥドゥ(都督)は、府の軍民両政長官だった。彼の下に上級官吏が位置した。それは州の長官スィシー(刺史)、部族や農村コミュニティ(部落)の監督官となっているショウリン(首領)やその他の様々な官吏たちだ。

国家行政機関(政堂省)は、左平章事と右平章事の二つで構成された。左平章事に入る部には、忠部、仁部、礼部があり、また部局として、勲封局、倉庫局、食料局があった。右平章事に入る部は、智部、義部、信部があり、部局として、決済局、軍事局、水利局があった。

全国は15府に分けられた。府の下には州が、州の下には県があった。全体で62州と125県があった。主要な行政権力は、5京(けい)にあった。上京は、(満州の)ロンチュエン(龍泉)府に置かれ、中京は、(満州の)シェンデュー(顕徳)府に、東京は(東満州、北朝鮮、ハサン地区の)ロンユエン(龍原)府にあった。西京は、(満州、北朝鮮の)ヤールー(鴨緑)府にあり、南京は(北朝鮮の)ナンハイ(南海)府にあった。府の位置に関しては、学者たちの一義的見解は無い。最初の見解の一つは、府の位置を次のように比定した(訳注:他の研究者たちの論文をネットでチラ見したものと比べるとあまりにも違っていますがそのまま訳しています):フアンユエン(懐遠)府(パルチザン地区とシュコトヴォ地区)、アンユアン(安遠)府(ハンカ湖の西と南西)、シュアイビン(率實)府(ラズドーリナヤ川の流域)、ディンリ(定理)府(ハンカ湖の東)、アンビエン(安辺)府(アヌーチノ地区、チェルニゴフカ地区)、トンピン(東平)府(ハンカ湖の北、多分ビキンまで)、ヒエリー(鉄利)府(ダリネゴルスク地区、カヴァレーロヴォ地区)、マオチエー(鄚頡)府(一説によるとスンガリ川下流、別の説では、チェルネイ地区)。その他の府は、満州と北朝鮮にあった。

[軍と軍事]
渤海は、その誕生の時から強力な軍隊を誇った。渤海軍は、衛と名付けられたいくつかの大きな部隊で構成された。衛を率いたのは、将軍か大将軍だ。次のような7つの部門が知られている:猛勇大熊衛、ヒグマ衛、南左衛、南右衛、北左衛、北右衛。パルチザン地区では、左猛賁衛将軍の札が発見された。

考古学者たちによって多種の矢尻が大量に発見されている。弓矢は基本的な武器だった。その他、槍先、刀、兜も発見されている。兵士の身体は、鉄の板で作られた甲冑で保護された。

軍の土台を構成したのは騎兵隊だったが、後になって歩兵が現れた。必要に応じて、敵の背面で偵察を行った特別部隊が創設された。渤海人たちは水軍も持っていたが、渤海の軍船が具体的にどのようなものだったのかは、確定的な見解は無い。

軍は野戦で勇猛だったばかりでなく、町を襲撃することも出来た。渤海では、町の防衛も良く発達していた。町は土塁や石壁で囲まれ、その前には塹壕が掘られていた。山城への道は、敵が正門を襲うことが出来ないように付けられていた。

[社会構造]
初期の渤海では、モヘ(靺鞨)社会制度が維持され続けた。社会全体は平等の部落民と首領から成っていた。首領の座は、相続か功績によるものだった。ダ・チンマオ(大欽茂)の統治が進むにつれて、渤海社会はより複雑に成った。国の全権力は、王に属し、その地位にある者は神聖だった。王族(全ての肉親)は、最強の官吏だった。最も高い貴族階級は、六つの名門氏族(ガオ高、チャン張、ヤン楊、タオ陶、ウ烏、リ李)の代表者たちで構成された。これらの氏族の長は、かつては大首領だった。彼らの地位は王族とほぼ同じくらい高かった。これらの氏族たちは王子たちに花嫁を提供し、省の長官や都督(府の長官)の地位を占めた。主要な富は、彼らの掌中にあった。

多数の官吏たちは、最高の貴族階級ほどは名門ではなかった。基本的にそれは国の仕事や軍務で自分のキャリアを作った、世襲に頼らない上流階級で、時にそれらは庶民出身者たちだった。渤海社会で最も多数を占めたのは、自由な部落民たちだった — 彼らは村の住民たちで、農作業や手仕事に従事したり、貴族の荘園で働いたり、独立して働いていた。社会の最下層は奴婢だった。それは不平等な部落民から奴隷までの従属させられた人々だった。奴隷は多くはなく、基本的に彼らは家の召使いだった。

  1. 2019/12/23(月) 23:52:00|
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2019/12/14 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜4〜 — 渤海国の歴史 —

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-bohaihist.htm

2019/12/14 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜4〜
渤海国の歴史 —

====「渤海って一体何?」と興味にかられて軽い気持ちで訳し始めましたが、泥沼が待っていました。人名、地名などの漢字を読んで(聞いて?)ロシア語話者がロシア語流に表記する、それを日本語のカタカナで工夫して表記し直す。これだけでも無理を承知で強引にやっています。中国語話者はこれを見て笑うと思います。しかし、万が一正確に表記したとしても、渤海人が現代中国語と同じ発音をしたとは到底思えません。日本人だって大祚栄をダイソエイと発音しているのですから、渤海人だって渤海流に漢字を読んだのでは? 大祚栄がコグリョ(高句麗)の住民だったとしたら、テ・ジョヨンと朝鮮語読みの方が説得力がある気がします、その上、元になっている漢字を探しても、それがもう使われていなかったら、ここで表記も出来ないし、発音することも出来ません・・・でも固有名詞表記は今だって頭が痛い問題です。ここでは単に識別出来れば良いと思って頂くほかはありません。=====

[国家の創立と強化]
父から残された強大な義兵を持っていたツオロン(祚栄)は、隣人たちの中国(唐)への襲撃を利用して、698年、自らを独立国チェン(震)の王だと宣言し、ダ(大)の姓を名乗った。

中国(唐)は新しい国家をすぐには認めなかったが、705年チェン(震)に外交使節を派遣した。713年中国(唐)皇帝は、ダ・ツオロン(大祚栄:だいそえい)に渤海郡王と一連の高位の称号を授与する勅令を発した。これによりツオロンは、中国皇帝の手から高い地位を得るところとなった。中国人たちが、帝国の首都からそう遠くないところに位置する渤海郡を、何故少し前までの自分の敵に贈ったのか、多くの学者たちは奇妙だと考えている。きっとモヘ(靺鞨)族がこの地域を占領し、その後になって天子は自分の失敗を何とかして糊塗するために郡贈与の勅令を出したのだろう。この時から中世の年代記でモヘ(靺鞨)の国家が新しく、渤海と称せられようになった。そして渤海領土内に住んでいたモヘ(靺鞨)族は、渤海人と呼ばれるようになった。

ダ・ツオロンは、自分の軍を強化し、領土を広げた。彼の統治の期間に、隣人たちは渤海を重んじるようになった。719年、初代渤海王が死の床にあった。新しい王になったのは、彼の息子のダ・ウイン(大武芸)だった。

強力な軍隊を遺産として受け継いだ新王は、隣接する土地の征服を続ける。しかし、ここでウインは近親たちであるヘイシュイ・モヘ(黒水靺鞨)に突き当たる。ヘイシュイ・モヘ(黒水靺鞨)の指導者たちは、自分たちの独立を維持したいと願ったが、彼らの義兵は渤海軍よりも弱いことを理解していた。それ故彼らは、渤海人たちに抵抗する同盟国を熱心に探す。この時期に中国は、渤海軍の力を既に幾度も経験しており、『夷を以て夷を制す』の兵法を適用する決心をする。このためには渤海を周辺諸国のいずれかとの戦争に誘い込まなければならなかった。中国とヘイシュイ(黒水)が早速に同盟国となったのは何ら驚くに当たらない。

渤海もまた熱心に同盟国を探しており、727年、日本に派遣された使節は、翌年、日本の渤海支援のニュースを持ち帰った。長い戦争が始まる。この戦いは、数年後にヘイシュイ(黒水)の敗北で終了した。

この戦争が始まったばかりの時に、渤海軍総司令官であり、王の弟でもあるメンイン(門芸)が、敵側に亡命し、中国に身を隠した。ダ・ウイン(大武芸)は、中国皇帝に裏切り者の引き渡しを要求したが、誰一人引き渡されなかった。この時、渤海人の特殊部隊が中国領土に侵入し、メンイン(門芸)の隠れ家を見つけ出した。奪おうと組織したが、失敗した。一連の交渉の後ウイン(武芸)は、裏切り者隠匿の罪で中国人たちを罰する決断をした。733年渤海水軍(原注:数多くの海賊たちが渤海人たちに味方したという推定が存在する)は中国最大の港の一つデンチョウ(登州)を攻撃した。正にこの町から唐と東の周辺国との貿易が行われており、正にここに帝国水軍の主力があった。デンチョウ(登州)は渤海人たちにより破壊され、略奪され、唐の水軍も被害を受けた。

738年、ダ・ウイン(大武芸)が死去した。初期の王たちの統治期間に渤海は強国になり、強大な中国を含む全ての隣国が、渤海を重んじた。渤海のその後の歴史についてはほとんど知られていない。何故なら、ダ・ウイン(大武芸)が天子(天孫?)の称号を自ら名乗ったために、中国皇帝は渤海人たちに非常に腹を立て、彼らについて国の年代記の中で触れないように命じたためだ。

新しく渤海王になったのは、ダ・ウインの息子のチンマオ(欽茂)だった。彼は、半世紀以上にわたって統治した。今やもう隣人たちは渤海に侵略しようとはしなかったので、ダ・チンマオ(大欽茂:だいきんも)は国の整備に着手した。彼は5つの首都(5京)のシステムを導入した。それぞれの首都の総督は、征服した土地を統治した。全国は府と州に分けられた。部族の指導者たちに代わり、官僚制度が作られた。官僚たちは8つの階級に分けられ、そのそれぞれが識別の標識と衣服の色を持っていた。

チンマオ(欽茂)は外交政策においても渤海の立場を変換した。彼は渤海と中国、シルラ(新羅)との関係を修復することが出来たが、日本との関係は難しくなった。彼は、755年に(唐)皇帝に対して蜂起した中国の将軍アン・ルーシャン(安禄山)を支援したと、何人かの学者は考えている。同時にチンマオ(欽茂)は、自らの居城を上京から東京に移した。794年王は亡くなった。

渤海のその後の歴史に関しては、ほとんど分かっていない。隣人たちとの関係は維持された。チンマオ(欽茂)の後は、一年足らずユアンイー(元義)が統治し(794)、フアシュイ(華輿)の統治も短期(794~795)だった。ソンリン(嵩璘)の統治(795~809)の時期、日本人たちは渤海使節受け入れのために特別な暫時逗留のための館を建てた(訳注:804年能登客院造営の令)。ユアンユー(元瑜)(809~813)、ヤンイ(言義)(813~817)、ミンチョン(明忠)(817~818)という王たちの活動に関しては、ほとんど何も分かっていない。その後ダ・レンシヨ(大仁秀)(818~830)が王になり、その後は彼の孫のイーチェン(彝震)に代わった。これらの王の下では渤海の領土が北東に著しく拡大した。正にこの時期に現在の沿海州のほぼ半分が渤海に組み込まれた。チェンフアン(虔晃)(858~870)、シュエンシー(玄錫)(870~892)、ウェイゼ(瑋偕:偕の字は左の偏が王)(892~905)、各王の統治については何の情報も無い。

ダ・インチュアン(大●撰)(905~926)の統治の時期、国境の北西で契丹族の帝国リャオ(遼)が出現する。916年契丹人たちは、渤海に対して開戦し、10年後渤海は遂に消滅した。

渤海は、沿海州の地が組み込まれた最初の国家だった。それはツングースの強大な国家であり、2世紀に渡って中国の北東侵略計画の防壁となり、その結果として、現代ロシア極東の現代の民族の形成を可能にした。渤海文化は、多くの近隣諸国の文化に影響を与えた。

[渤海を征服した人たち]
渤海は契丹人たちによって粉砕された。キダーニ(契丹)は、モンゴル語族で、昔からモヘ(靺鞨)の北西の隣人だった。彼らの部族は、満州とモンゴルの草原で遊牧生活を送っていた。エネルギッシュな統率者アンバギャン(阿保機)は、徐々に強力な部族連合を創っていき、916年自分を皇帝だと宣言した。帝国は幾度となく名称を変え、そのうちの最も有名なものがリャオ(遼)だ。

牧畜では、全ての必要な食料を賄えなかった。そのため契丹人たちは略奪を始め、その後農民たちを服従させた。強力な契丹軍は周辺の土地を征服する。形成された契丹帝国では、契丹人そのものは住民の5分の一に過ぎず、中国人や渤海人が圧倒的多数だった。

帝国を率いたのはィエリュイ(耶律)(契丹語ではシェリ)一族だった。皇帝が唯一の統治者だった。力と富で二番目に位置したのはシャオ一族で、この一族から全ての契丹皇后たちが出た。ィエリュイ一族とシャオ一族を代表する者たちは、お互いの間だけで結婚した。皇帝の座は相続に委ねられたが、異変もあった。

国は渤海と同じように、5つの首都があった。皇帝は全ての首都に順番に住んで、総督たちの監視を行った。行政府は、6つの省で構成された。リャオ(遼)には科学アカデミー、国家資料編纂部、その他の国家機関があった。高貴な人間も罪を犯せば平民に落とすことが出来、一方で裕福な平民は、官吏の職を買うことが出来た。普通の遊牧民の生活は、苦しいものでは無かった。自由遊牧民は、契丹軍の基本を構成したので、政府は彼らに配慮した。リャオ(遼)は、女真族の指導者アグダ(阿骨打)が契丹人たちに対して戦争を始める迄は、順調に発展した。この戦争は、1125年リャオ(遼)の壊滅によって終了した。

====この内容は、もしかしたら多分専門家にとっては、多くの間違いを含んでいるのかもしれません。ただ沿海州には、自分たちの歴史として興味を持っている人々が少なからず存在するようです。若い人たちのクラブ活動のためにこのようなテキストが存在するのは、面白いと思います。=====

  1. 2019/12/14(土) 18:07:00|
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2019/11/22 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜③〜       — 渤海人たちの文化、外交、宗教 —

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-bohaikult.htm

2019/11/22 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜③〜
      — 渤海人たちの文化、外交、宗教 — 

渤海文明の文化水準の高さについては、多くの学者たちによって指摘されている。このことは渤海文化の様々な分野に反映されている。この国では、若者が読み書きと弓道を修得しなければ、結婚することを許さない習慣さえ存在した。

[文字]
文字は読み書きの基盤だ。現代に残る資料によれば、渤海人たちが使用していた三種類の文字体系について語ることが出来る。最も一般的だったのは漢字だ。この文字によって近隣諸国との文通が行われ、渤海王女たちの石碑の碑文が出来ている。

渤海人たちはまた、古代チュルク語のルーン文字(音素文字)にも通じていた。ウスリースクでは、『スイビング』とルーン文字で書かれた石版が発見されている。

渤海国上京の瓦にあったような、渤海音節文字についての資料はほとんど残っていない。書く文字以外に、朝鮮を含む中世のいくつかの民族が使用していた結縄(けつじょう)文字によっても情報が伝達出来たという説も存在する。

読み書きを身につけるために、渤海には学校が作られていた。より高い教育を受けたいと望む人たちは、中国に留学した。

[文化、スポーツ、科学]
====この章は、「秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国⓵」で訳したもの====

[外交]
戦争を除き、渤海人たちは近隣諸国との貿易および外交関係を積極的に維持した。そのことは近くの国々でも、非常に遠い国々でも変わりはなかった。

最大の隣人は中国だった。この国とは積極的に貿易が行われ、外交関係が維持された。このために二つの大きな街道 —『インチョウ(営州)道』と『朝貢道』— が建設された。また中国には留学もした。

南の隣国はシルラ(新羅)だった。朝鮮人たちとも外交関係が築かれ、貿易が行われた。『シルラ(新羅)道』が存在した。朝鮮の物は、渤海の多くの場所に入り込んでいた。シルラ製の陶器は、クロウノフカ近くのアブリコーソフ旧村落地発掘の際に発見された。

日本との関係は、渤海国の全歴史(698~926)を通じて続いた。渤海は、日本における芸術と仏教の普及に影響を与えた。日本列島への道には、海が横たわり、危険を秘めていた。727年の最初の渤海使節団は、嵐に遭い大部分が死亡した。その後も渤海船は、幾度となく日本海(当時は東海と呼ばれていた)の海中に沈没した。日本との貿易は非常に有益だった。日本列島への海の道の始点は、ヤン港だったが、そこには今日まで、(沿海州)ハサン地区のクラスキノ土城跡が残っている。

北西の隣人たちであるキダーン(契丹)人たちとの関係も維持された。そこへは『キダーン(契丹)道』が通じていた。北東の隣人たち、ヘイシュイ・モヘ(黒水靺鞨)(訳注:ヘイシュイは黒い川の意で、古代中国でアムール川とその支流をそう呼んだ。モヘはロシア語での言い方で、日本語ではまっかつ)へは、『ヘイシュイ道』が通じていた。北の隣人たち、シヴェイ(室夷:夷の字の真ん中を貫いているのは人ではなく縦棒一本の|)人たちとの何らかの接触も存在したようだ。中央アジアには、強国の第二東チュルク可汗国(東突厥第2可汗国)があり、渤海はこれと同盟した。それ以外の中央アジアの国 — ウイグル可汗国 — との関係は、明らかではないが、しかし、それの壊滅の後、多くのウイグル人たちが渤海に移住した。中央アジアの国ソグドとは強い関係があった。沿海州では、考古学者たちによってアルセーニエフ市近郊でソグド起源の品々やソグド人のコロニーさえ発見されている。

外国との繋がりは、隣人たちの成果を取り込むことで渤海を豊かにし、また渤海の到達度を隣人たちに知らしめることを可能にした。

[宗教]
渤海では、中世の極東の多くの国々がそうであるように、異なる宗教的教えが共存した。その中でも最も大きなものは、仏教とシャーマニズムだった。

仏教の教えは、朝鮮から渤海に入り、ここで広く認知された。特に貴族社会でそれが言えるが、しかし、平民もこの宗教を信奉した。ウスリースク地区では、農村に渤海人たちによって建てられた四つの寺院(偶像堂)遺跡が発見されている。一つの寺院は、ボリソフカ村にあり、それ以外の三つは、クロウノフカ村にある。コプィチンスク寺院、アブリコーソフ寺院、コルサコフ寺院がそれだ。

コプィチンスク寺院は、クロウノフカ川低地の中央に独立して聳えた低山の頂の、特別に設えた平らな場所、プラットフォームに建設された。寺院の庭は、石で舗装された。石を敷いた下には、雨水を排水するための特別な水路が作られていた。庭の一部が斜面になっているところでは、庭の水平を保つためにプラットフォームが建設された。プラットフォームの端は、大きな石を並べて作られた。通りから庭の敷地へは、数段から成る階段で繋がっており、それらは完全に発掘された。

寺院自体は、木造だった。寺院の壁は漆喰で塗られ、象牙色に着色された。さらに壁ごとに、赤い雷文(らいもん)模様が描かれていた。

アブリコーソフ寺院は、同名の山の斜面に建てられ、これも特別なプラットフォームを作って斜面が水平に地ならしされている。この寺院は、コプィチンスク寺院の火災の後、建設された。瓦の一部がコプィチンスク寺院からアブリコーソフ寺院に運び移された。寺自体は、石の基礎の上に木の塀で囲われた庭の中央に立っていた。木の塀は、現代の寺院の塀と同じように、瓦屋根で葺かれていた。庭の敷地への入り口には、小さな門が建てられていた。

コルサコフ寺院は、クロウノフカ川の高い河岸に建てられた。その庭の一部と寺院自体の一部は、川に流された。さらには20世紀初頭に朝鮮人移民たちがここに個人の住宅を建てたために、寺は大きく掘り返された。

シャーマニズムは、モヘ(靺鞨)人たちの古代世界観だが、渤海人の間でも存在し続けた。それは火信仰、甲羅や頭蓋骨信仰、アニミズム信仰などの系統を含んでいた。シャーマニズムに付属する道具類が、考古学者たちによってウスリースク郊外や、クロウノフカ近郊、ラゾーフスク地区で発見されているし、マリヤノフスク土城跡ではシャーマンの住居が発掘された。

渤海人たちは、古代中国の教え — 道教にも通じていた。道教の理論、風水に基づいてクロウノフカ近くの複数の仏教寺院が建てられた。道教は、儒教と密接に絡み合っていた。恐らく儒教の教えにも、渤海人たちは馴染んでいたのだろう。渤海人たちはキリスト教も知っていた。クロウノフカ郊外のアブリコーソフ寺院の発掘の際には、ネストリウス派キリスト教(景教)の十字架の造形物が発見された。ネストリウス派キリスト教が異端であるとされた後、多くのキリスト教徒やネストル支持者たちが、近東から東に、中国にまで移住した。おそらく、彼らの中の誰かが沿海州にもやって来たのだろう。

  1. 2019/12/05(木) 18:20:00|
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2019/11/14 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜②〜       — 渤海人の生活と仕事 —

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-bohaihoz.htm

2019/11/14 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜②〜
      — 渤海人の生活と仕事 — 

=====この資料は、課外活動のために自治体の予算で作っている教育施設《子供創造センター》の中にある、考古学クラブのテキストのようです。ですから、大まかですが、全体像をつかむのに良いと思いました。それで今回からは、前回のように拾い読みではなく、出来るだけ忠実に訳していこうと思います。地元の考古学的発見など描写が具体的です。私の素朴な疑問であった、ブタを飼育して食べていたのかにも、少し触れられています=====

[農業]
渤海の人々の大半は、村に住み、農業に従事し、様々な作物を育て、家畜を飼育していた。

耕作には大きな注意が払われた。村と村の間には、大きな畑が広がり、そこではキビ、大麦、小麦、大豆、米、ソバが栽培されていた。土地は鋤(すき)や棃(すき、プラウ)によって耕された。実った収穫物は、大きな陶器の入れ物で保存されるか、土を掘って穀倉を作った。炭化した穀物が入ったこのような穀倉の一つが、考古学者たちによってミハイロフスク地区のニコラエフスク-2土城で発見された。

穀物以外では、亜麻と麻が大量に栽培され、それらから薄く繊細な布やザラザラした布が作られた。多くの果物や野菜も、果樹園や菜園で育てられていた。かつての渤海人入植地周辺では、野生化したサクランボ、プラム、ナシ、アプリコットに良く出くわす。ウスリースク市管区では、特に多くの野生アプリコットがクロウノフカ川の谷間に生えており、ここでは考古学者たちによって多くの渤海人村が発見されている。

畜産は重要な役割を果たした。多くの渤海人たちが雌牛や雄牛を育て、それらから肉、皮、牛乳を得た。雄牛は、プラウや荷車に繋がれた。馬の群れも著しく多く、それらは基本的に軍のニーズのためだった。食料肉の供給源には、ブタや犬もなった。羊はほとんど飼われなかった。

[手工業]
それぞれの都市にも多くの人々が生活していた。都市は手工業や商業の中心だった。

最も集約的労働が必要だったのは、冶金だった。それには鉱石を探すための地質学的知識が必要だったし、溶解や高品質の金属を得るための科学的、物理的秘訣を身に備える必要があった。渤海の職人たちは、製鉄し、それから様々な生活道具を作り、また武器製造のために二種類の鋼鉄を精錬し、様々な品質の鋳鉄で物を作った。(原文注1:ヨーロッパで鋳鉄の加工が始まったのは、渤海滅亡後500年が経ってからだった)

銅、銀、金からは装飾品や、生活調度品が作られた。渤海の職人たちは、装飾品の銀メッキや金メッキのためにアマルガムを使い始めた。それは水銀の中で銀か金を溶かし、その溶液に銅製品を浸し、その後乾かすのだ。水銀が蒸発すると、銀や金は、職人の精巧な仕事の繊細さを歪めることなく、薄い層になって製品全体を覆った。

陶業は、非常に重要だった。陶工たちは都市だけでなく、村でも働いた。陶器を焼く窯はコルサコフカ村、クロウノフカ村の近郊で発見されている。陶器の食器 — それは考古学的発掘において最も数の多い発掘品だ。渤海人たちは、様々な食器類を作った。容器の一部は調理の際に使われ、他のものは、食物を入れて食卓に出された。非常に大きな容器では収穫物を保存した。また、火消し壺、燭台(ひょうそく、灯明皿)などといった特別な器もあった。

しかし、陶器は水分を吸収するとすぐに劣化した。陶工たちは、容器を艶が出るまで研磨したが、それも役に立つ寿命を大幅に伸ばすことにはならなかった。そこで彼らは、水気を通さない、薄いガラス質のコーティングを容器に施すことを考え出し、学んだ。このコーティングは釉薬、またはうわ薬と呼ばれている。陶工たちは、半透明、茶色、黄色、そして緑色の釉薬を作ることが出来た。釉薬を施された(うわ薬のかかった)食器は、生産が複雑なため高価だった。沿海州では釉薬生産の工房が、キーロフ地区のマリヤノフ土城に存在した。

粘土からは他の多くのものが作られた:麻を手で紡ぐ際、糸を巻き付ける心棒の支点の役割を果たすホイール(紡錘車)、釣り糸に垂らす錘(おもり)、ビーズなど。

寺院や役所の建物は、瓦屋根だった。渤海の職人は、様々な瓦を作った。瓦を焼くための10個の窯が、ハサン地区クラスキノ土城で発掘された。屋根の一番端(軒先)に載せられた瓦(軒丸瓦)は、花の図案や模様で飾られていたが、コルサコフ寺院(偶像堂)の瓦は、鳥の模様が施されていた。渤海国全体の中でこのような図案を持っている唯一の場所だ。

手工業ではその他に機織りも発達していた。渤海人たちはザラザラした布や繊細な布を織ることが出来た。前者は袋や馬車の覆いなどに、後者は衣類になった。皮革職人も衣類を作るのに携わった。木の柄杓、スプーンや斧の柄は誰でも作ることが出来たが、車輪、荷車、船の製作は専門家でなければならなかった。石工は、穀物を加工するための臼、製粉所の石臼、寺院の彫刻などを作った。骨材彫刻師は、矢じり、装飾品、家庭用具を作った。ガラス製造工は、当時高価であった装飾品を作った。

これら全ての手工業と農業は、商業を発達させた。積み荷を輸送するために道路が建設され、夏でも冬でも川が積極的に使われた。ウスリースク市管区の渤海人集落近くで、いくつかの古代の道路が発見されている。

[狩猟、漁労]
渤海の採取業は、中世の人々にとってはごく普通のものである。彼らは狩猟を行った。弓矢を使って様々な動物や鳥の狩りをした。狩猟用の矢じりは、骨か鉄だったが、動物たちに大きな傷を負わせてしまうような広い羽が付いていた。渤海人たちは鷹狩りにも精通していた。

魚は、釣竿、網、やす(漁具)を使って獲った。発掘ではしばしば釣り用の錘(おもり)や釣針が見つかる。魚は一年中いつでも大量に獲れた。マリヤノフスク土城では、住居の近くで魚の鱗の大量の山が発見された。恐らく入植地か漁労のためのベースがあったのだろう。ウスリー地区のラズドーリナヤ川の岸辺では、釣り用の大量の錘と一緒に入植地が見つかっている。ハンカ湖(渤海人たちはメイトと呼んでいた)で獲れたフナは、渤海国の外でも評判だったことが知られている。

森では、ベリー類、キノコ、木の実、ねぎ、広葉にんにく、その他の食用になる山草、それに薬草を採取した。薬草の中で特に抜きんでていたのは朝鮮人参だった。渤海人たちは、蜂蜜や野生ミツバチの蜜蝋も採取出来た。

[風俗]
渤海人たちは、木造の家に住み、屋根は藁葺きだった。裕福な人たちの家の屋根は瓦葺きだった。家は炉かカン(炕:オンドルの古い形)で暖められた。ナールィ(部屋の床から少し高くなった板張りの場所)の上か、カンの上で寝た。食事には、木製、陶器、金属製の食器、スプーン、箸を使った。家の右の部分は女性の場所、左は男性の場所と考えられていた。庭には、作業が出来るように必要なものが置かれていた。家畜は一年中外で飼われていた。

衣類は、軽い麻布か絹で縫われた。上着には革や毛皮が使われた。衣服にはポケットが無く、必要なものは、衣装には必須のものであったベルト(帯?)に固定された。ベルトは様々な金具で豊富に飾られ、オリジナルなバックルやその他の帯留め類が作られた。衣服そのものには、しばしばリングやその他の装飾品が縫い付けられた。手を飾る指輪やブレスレット、イヤリング、ネックレスは広く普及していた。特別な装飾的(帯などに挟む時の)すべり止めの根付は、広がりを見せ、それらの中には、宝石工芸の傑作もあった。

=====この章では、渤海人の暮らしが徐々に具体性を帯びて浮かび上がってきました。肉の供給源にはブタもあったと書かれています。イノシシについては残念ながら具体的には触れられていませんが、普通の狩猟だったとありますから、イノシシも食べた可能性はあるのではないでしょうか。

興味深かったのは、日本へ出発する船が出た港は、正に秋田港の対岸にあり、その拠点であったクラスキノ土城から瓦を焼く窯が10個も発見されたという箇所。秋田城からは瓦の遺物が発見されていますが、周辺には瓦を焼いた窯が一つも見つかっていないという。当時の渤海船では大量の瓦を運ぶのは無理だったのでしょうか。でも見本ぐらいは運べたでしょう。何らかの関連はないのでしょうか。素人過ぎる興味で恥ずかしいですが・・・=====

  1. 2019/11/18(月) 23:30:00|
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2019/11/13 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜⓵〜

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-bohaikult.htm

2019/11/13 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜⓵〜

先日、秋田市の高清水岡(たかしみずのおか)を訪れました。奈良時代に出羽柵(いではのき)(のちに秋田城と改称)があったところで、外国人の観光客も何人か目につきました。ここでは、立派な奈良時代の水洗トイレ遺構が発見され、その沈殿槽内の土から、ブタ食を習慣とする人たちが感染する寄生虫の卵(有鉤条虫卵)が発見されたそうです。つまり、このトイレの使用者は、大陸からの来航者で、ブタの飼育が盛んな渤海の人たちである可能性が高いということです。

渤海という国は、今の中国、北朝鮮、ロシア沿海州にまたがって存在した国です。私は、ブタを飼育して食べたのではなくて、イノシシを狩猟して食べていたのではないかなという感じがちょっとしたので、渤海という国を調べたくなりました。ロシアでは十二支でイノシシ年と言わずにブタ年ということが多いことが頭にあったせいかもしれません。

渤海のことを本格的に調べるには、日本の「続日本紀」を始めとして、朝鮮語、中国語、ロシア語の文献を読む必要がありますが、私はロシア語しか知らないので、とりあえずインターネットで見つけた、ウスリースク市の「若い考古学者のクラブ『予備隊』」という所のホームページから、日本との関係に触れた箇所を拾い読みすることにしました。人の名前は中国風なのか、朝鮮風なのか、どういう漢字なのかさっぱり分かりませんでした。

「日本との関係は、渤海国の全歴史(698~926)を通じて続いた。渤海は、日本における芸術と仏教の普及に影響を与えた。日本列島への道には、海が横たわり、危険を秘めていた。727年の最初の渤海使節団は、嵐に遭い大部分が死亡した。その後も渤海船は、幾度となく日本海(当時は東海と呼ばれていた)の海中に沈没した。日本との貿易は非常に有益だった。日本列島への海の道の始点は、ヤン港だったが、そこには今日まで、(沿海州)ハサン地区のクラスキノ土城が残っている。

[芸術、スポーツ、科学]
渤海では様々な文化が育った。詩歌は読み書きに直接的に結びついていた。渤海の詩歌は、日本の詩歌の発展に影響を及ぼした。詩人ヴァン・ヒオリョン(?)、インジョン(?)、チョンソ(?)や、『天の川澄みきって』とか『凍てつく空の月光』といった才気縦横なスタイルを高く評価されたヤン・テサ(楊泰師?)は人気があった。

音楽、歌、演劇もとても盛んだった。日本から渤海に学生たちが音楽を学びに渡って来た。渤海の音楽と舞踊は、日本の舞台芸術の発展に影響を与えた。日本では『渤海楽』という舞台芸術のジャンルが現在まで生き残っている。

装飾芸術も高度な発展を見せた。様々な図案装飾が、食器、瓦の先端の飾り瓦(軒丸瓦)、かぶせ皮の上に施された。動物のフィギュアや根付が独創的に作られた。

渤海人たちのスポーツ競技は有名だ。その中には、騎馬ポロ、球技、弓道などがあった。822年には、渤海使節たちが日本人たちと騎馬ポロの試合を行った。エキサイティングな試合の後、嵯峨天皇は、『早春打毬を観る』という詩を書いた。

寺院の建物、仏像、騎手像の装飾のためや、シャーマニズムの道具のために、テラコッタ(素焼き)、ブロンズ、石で彫像が作られた。

特に天文学と力学を始めとする、渤海の科学発展の非常に高い水準に関しては、次のような事実が証明している。859年、渤海の学者オ・ヒョーシン??(馬 孝慎?)が日本を訪れ、支配者の一人に天文暦『天球図』を贈り、現地の学者に使い方を教えた。この暦は日本で17世紀末まで使用されていた(訳注:宣明暦というのだそうだ)」。

この資料にも間違いがあると思うし、訳にも間違いがあるでしょう。とりあえず、ここまで。疑問が増えただけのような・・・

  1. 2019/11/14(木) 01:19:00|
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