楽天市場 あれこれ 2021年01月
fc2ブログ

あれこれ

2021/01/23 エヴゲーニー・プルシェンコ「子供たちへの侮辱、虐待は許さない」

https://catalog-n.com/tatler-2-2021#tatler-144

2021/01/23 プリューシュリーグ(アイビーリーグ)(訳注:ロシア語でプリューシュはツタのこと。プリューシェンコのプリューシュとツタのプリューシュを掛けている題名)

====一部抜粋====

(アルベルト・ガレーエフ)
・・・プリューシェンコ自身も、人々との良い関係を覚えている。ヴォルゴグラード出身の才能ある少年として、1993年彼はペテルブルクにやって来た。両親は付き添わずに一人で、コーチと一緒だった。

「私たちのために二部屋あるアパートメントを借りてくれた:一つの部屋にはコーチが住み、もう一つの部屋には、私と、私たちと一緒にやって来た女の子のターニャが住んだ」。エヴゲーニーは思い出を語る。「スケートリンクまでは乗り物で一時間半かかったが、全ては素晴らしかった。その後ミーシンが私を採用してくれた。ターニャは(ヴォルゴグラードの)家に帰って、私のコーチも帰った。それで私一人が残った。ミーシンには、教え子たちに与えていた自分のアパートメントがあって、そこに私を住まわした。

そこにいたのは、三人のスペイン人、二人の韓国人、三人のイギリス人、そして私だった。そのアパートメントも二部屋だった。そこで私はスペイン語で会話することをほんの少し学んだ:私とその時の隣人のミゲルは今でも友人だ。誕生日が同じ日なのだ。彼は今、スペインのローラースケート学校の一つで校長をしている。

その後、母がやって来て、私の世話をしたが、私にはただ惨事だった:言うことを聞くのを止めた」。

タチヤーナ・ワシーリエヴナは、ペテルブルクの息子のところへ転居した。父親のヴィクトル・ボリーソヴィチはヴォルゴグラードヴに残った。「父は私たちを食べさせるために、三つの職場で働いた」。

「私と母は、五人の隣人がいる共同アパートメントの一部屋を借りた。部屋はとても狭かった:小さなソファーと一つの折り畳みベッドがあり、小さなテーブルと一つの椅子、それに戸棚も小さいのが置いてあった。壁の向こうには、毎日酔っぱらっている男が住んでいた。われわれの部屋を区切っている壁は段ボールで出来ていた。そして彼はその壁をいつも私たちの方へ押し破ろうとしていた。しかし、そこに住むのは便利だった:スポーツ宮殿《ユビレイヌィー》までは、文字通り5分だったから」。

隣のアパートメントにネズミがいた。「夜毎に這い出した:私たちは二階に住んでいた。ゾッとするようなデカイ奴だった!父さんが来た時に、見て言った:《お前たちのために直ぐにねずみとり器を仕掛けてやろう》。本当を言えば、その時、私たちをそこから救い出す手立てが無かったのだ。父さんは、出来るだけのことをやろうとしたのだ」。

「ついでに言えば、両親はヴォルゴグラードにある全てをすんでのことに売ってしまうところだった。当時、そこのアパートメント、ガレージ、ダーチャ(訳注:農作業などをするための、郊外の小さな一戸建て)を売って、そのお金でペテルブルクに共同アパートメントの一部屋を買うことが出来たのだ。私は12歳だったが、こう言った:『どんなことがあっても、そんなことはしないでよ。もし僕が成功しなかったら、僕たち、どこに住むの? 何をするの? そうなったら、せめてヴォルゴグラードに戻ろうよ』。

困難な時代だった。私と母はびん拾いをした。彼女はそれをひどく恥ずかしがった。私は言った:『ママ、ここにいて。僕一人でこれから一走りして来るから』。トレーニングに行きながら、あるいは帰りながらも、私はびんを集めたものだ」。

しかし、彼には彼のアレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)がいた。「私がやって来た時、ミーシンの下で6人のアスリートが学んでいた」。プリューシェンコは語る。「ちょうどその時オリンピックで勝利したウルマーノフ、オリンピックで5位になったタタウーロフ。ヤグージンもいた。6人は既に大人だった。もしミーシンがトレーニングで僕に時間を割くと、一つか二つ、最大三つの注意が飛んできた。これは幸いなことだった。私は滑りながら、彼を見て、心で思っていた:『アレクセイ・ニコラエヴィチ、見てください、僕はこんなに努力していますよ』。私は彼から、私と一緒に働き始めるとささやかれることを夢見ていた。彼が試合に出かける時は、こう言ったものだ:『一週間後に戻るから、君はこれと、これと、これをやっておかなければならない』。そして私はそれをやり切らなければならないことを理解した。今、私のところでは各グループに、コーチが二、三人ずつ働いている ― 素晴らしい贅沢だ。当時は、ミーシンが帰ってくると、こう言った:『やり切ったね、良くやった!』。

私が14歳になって、私と彼が世界ジュニア選手権に行くようになると、彼は私のために時間を割くようになった。今私は、このようなアプローチは非常に正しいものだと考えている。自分の仕事によって、トレーニングプロセスへ注ぐ精力によってコーチの注目を得るべきだ。しかし、ミーシンは決して強便だったり、攻撃的だったりしたことは無かった。見守ることが出来たし、すぐに全てを理解出来た。一度も手を上げたことは無いし、見下げたり、侮辱したりすることも無かった。多くの学校ではそのようなことがある。私のところへコーチたちがやって来る時には、すぐに彼らにこう言う:『子供たちを侮辱すること、虐待することは、私の学校では私が許しません』。」。


スポンサーサイト



  1. 2021/01/27(水) 21:57:47|
  2. フィギュアスケート
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

2021/01/11 アレクセイ・ミーシンがコロナウィルスに感染した

https://abnews.ru/2021/01/11/aleksej-mishin-zarazilsya-koronavirusom/

2021/01/11 アレクセイ・ミーシンがコロナウィルスに感染した

ペテルブルクの著名なフィギュアスケートコーチ、アレクセイ・ミーシンがコロナウィルスに感染した。彼は《ビジネスニュースエージェント》特派員に、これを語った。

有名な専門家である彼のことばによれば、コロナウィルスに感染したのは、12月末か1月初めだという。彼の妻がチェリャービンスクでウィルスを拾い、家に持ち帰った可能性がある。彼はCOVID-19のテストを受け、1月3日に陽性と判定された。

「病気をして、1月3日から11日までで一週間が過ぎた。熱は無いが、衰弱感がある。それに食欲が無く、食べ物全ての味覚が無い」。アレクセイ・ミーシンはこう説明した。

フィギュアスケートコーチ、アレクセイ・ニコラエヴィチ・ミーシンは79歳という年齢から、危険度が高いグループに入る。2020年春のパンデミック発生後、有名な専門家である彼は、長い時間を別荘で過ごし、極力接触を避けて来た。しかしながら夏に、彼は積極的にスポーツ生活に参加し出し、自分の生徒たちのトレーニングの指導を始めた。

  1. 2021/01/14(木) 16:05:34|
  2. フィギュアスケート
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

2021/01/03 ミハイル・コリャダー「頭の中に明確な目論見書が出来上がっていた。後戻りする道は無い。もし20年間やって来たように全てをやるなら、何かを変える意味は何だったのか」

https://fsrussia.ru/intervyu/5320-mikhail-kolyada-u-menya-v-golove-slozhilas-chetkaya-ustanovka-chto-vse-nazad-puti-net-i-kakoj-smysl-bylo-chto-to-menyat-esli-delat-vse-tak-zhe-kak-delal-20-let.html

2021/01/03 ミハイル・コリャダー「頭の中に明確な目論見書が出来上がっていた。後戻りする道は無い。もし20年間やって来たように全てをやるなら、何かを変える意味は何だったのか」

チェリャービンスクでのロシア選手権で、ミハイル・コリャダーは三度目のロシアチャンピオンになった。オリガ・エルモーリナとタチヤーナ・フレイドとのインタビューで、ミハイル・コリャダーは、氷上への復帰について、アレクセイ・ミーシングループでの仕事について、成功が積みあがっていく気分について、彼独特の語り口で表現した。

―ミーシャ、グランプリモスクワ大会でのパフォーマンスの後、表彰台ではエキシビションナンバーのことを考えていたとあなたは話しましたね。では今は?

「今は、エキシビションのことは考えていない」。

―では、何について?

「これからの仕事について。表彰台の上に立って、どこへ向かって行かなければならないかを考えた」。

―どこへ?

「前へ」。

―今シーズンはあなたにとってどんな意味を持っていますか? というのも、あなたは一年間病気をして休みましたし、それまでのシーズンはシーソーのようでした。四方八方からこれ程の注目が集まり、それに惑わされずに自分に集中しなければならなかった今回、氷上への復帰はかなり大変だったのではないですか?

「そもそも、どのシーズンも始めるのは大変だ。特に休んだ年の後は。アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)のグループに移ることになったことも、特殊性を付け加えた。なぜなら、全てが違うのだから。仕事場も違えば、トレーニングシステムも、その他の全ても違う。そして、どういう訳かこれら全ての事に非常に引き込まれて、時々、時を忘れる程だった。数週間はあっという間に過ぎた」。

―新しいトレーニングシステムに適応するのは難しかったですか?

「一生懸命やった。なぜなら、新しいコーチのところに移りながら、全てが古いままだったということになれば、移行の意味が失われることを十分理解していたから。私はひたすら信じたし、アレクセイ・ニコラエヴィチも、今年のそれぞれの試合に向けて非常に正しく導いてくれた。なぜなら、一つ一つの試合 ― それは何らかのより大きなものに向けた準備段階だからだ」。

―そこにこそコーチの手腕があります、試合に向けてアスリートを正しく導くことに。

「その通りだ。ましてアレクセイ・ニコラエヴィチには、人々の再起に関する経験が、私自身よりも、遥かに豊富なのだから。より正しく言えば、つまり、彼は、私自身よりも、遥かに頻繁にアスリートたちを再起させている。コストナー、リーザ(トゥクタムィシェワ)、ジェーニャ・プリューシェンコ・・・・毎回彼はアスリートたちを《蘇生させて》、押し上げている」。

―ミーシンと働き始めて、ある程度《自分の歌のための喉》を踏む(訳注:自分を押さえることの詩的言い回し)必要があったのでしょうか? だってあなたは既に成人のアスリートなのですから。結果を出すためには、言われたこと全てを実行しようと、心の中で決心したのですか?

「はい、心の中で。アレクセイ・ニコラエヴィチのグループへ移行する前に、私と彼との話し合いがあったが、私はこの話し合いの前に、全ての質問に対して自分自身に答えを出していた。何のために私は移ろうとしているのか、どうして、何故、どのように。そしてアレクセイ・ニコラエヴィチが質問した時、私はもう一度これを確信し、全てを声にした。私の頭の中には明確な目論見書が全て出来上がっていた。後戻りする道は無い、もし20年間やって来たように全てをやるなら、何かを変える意味は何だったのか」。

―恐らく、あなたがグループにやって来たことは、アレクセイ・ニコラエヴィチにとってもある種の挑戦なのでは?

「私は彼に代わって答えることは出来ない。彼が何か少し元気になったのは分かる。もともとアレクセイ・ニコラエヴィチは、非常にエネルギッシュな人ではあるけれども。私はトレーニングに出るのがとても楽しい。家に帰るのが大変な程疲れている時でさえ、それでもさらに仕事をする力を自分の中に見出すことが出来る」。

―テクニカルスペシャリストの一人が、あなたとアレクセイ・ニコラエヴィチが、あなたのジャンプテクニックを少し変えたことに気付いていました。具体的には、ジャンプへの入りが短くなり、それによって実行を安定させたと。これはその通りですか?

「われわれは、ジャンプへの入りの長さは変えていない。しかし、コントロールが少し増したのは事実だ。時として外側からは、何らかのものが、内側で感じているものと違って見えることがあるから、意見の違いが生じる」。

―ロシア選手権であなたはプログラムの中で四回転ジャンプを跳びましたが、サルコウはまだ省かれて、トリプルフリップを組み入れました。しかし、将来的には多分、ジャンプのコンテンツを強化するのでしょうね。

「計画にはある」。

―四年前、ここチェリャービンスクであなたは初めてロシアチャンピオンのタイトルを獲得しました。その思い出は、多分、あなたの士気を高めたのではないですか?

「どうして(昔の)そのことを考えるだろう? 例えになるかどうか分からないが、アニメに《カンフーパンダ》というのがある。その中でカメの賢い先生がこう言う:過去は忘れられる、未来は閉じられている、現在は贈られた実在だ。だから現在の事を、現実とも言うのだ。ここで今起こっていることについて考えなければならないだけだ。確かに、もちろん、四年前私はチェリャービンスクにいた。全て素晴らしい。氷を知っている、ホテルを知っている、街を知っている。しかし、それは過去だ。既に歴史だ。先に進まなければならない」。

―このチャンピオンシップの直前に、あなたはちょっとした病気をしましたね。

「数日間熱があった」。

―これまでもサランスクでのロシア選手権には、病気の直後に出場しました。このような状態で試合に出るのは、肉体的に、あるいは精神的に、どちらが難しいのですか?

「試合は全て難しい。ましてやロシア選手権のような試合はなおさらだ。私は肉体的に、より難しかった。しかし、体調がどうだったか、食欲がどうだったか、睡眠はどうだったか・・・などについては考えなかった。ただ、出て行って、仕事をする。それだけだ」。

―今回のチャンピオンシップでの自分のパフォーマンスを分析出来ますか?

「私とコーチは、まだ分析していない。アレクセイ・ニコラエヴィチには、考えて分析する時間が必要だ。私も全てを認識し、分析する必要がある。会って、それぞれの総括を共有するだろう」。

―チェリャービンスクでのロシア選手権には、あなたの妻のダーシャ(ダリヤ)が出席していました。彼女も(ペアの)フィギュアスケーターでした。このことはあなたの助けになりますか?

「99パーセント。1パーセントは、私自身が何かを作ろうとした。そもそも、彼女が隣にいる時、私は何か特別な気持ちになる。私たちがどこにいようと、アットホームな気分になり、全てが上手く行っている気持ちになる」。

―何らかの時に、あなたのパフォーマンスについて話し合いをするのですか?

「私たちが話し合えないテーマは無い」。

―あなたがトレーニングから戻る時には、《生産的な》話し合いを?

「家では、もちろん、トレーニングの事、それの意味を彼女と共有している」。

―あなたはダーシャの意見に耳を傾けるのですか?

「生活に関しては常に。トレーニングに関しては、彼女は決して何も私に助言しない」。

―あなたの仕事を分かっている人が隣にいて、あなたが何に取り組んでいるのかを理解しているのは、素晴らしいことですね。競技後のインタビューであなたは、回を重ねるごとにますます面白くなっていると話しました。具体的には何が?

「自分の力を試すことが面白くなっているのだ。なぜなら、それぞれの試合には一定の困難があり、それらを克服することが私には面白い。ソチでは(訳注:ロシアカップ第3戦、10月23日~27日)自分の微妙な違いがあったが、ここのロシア選手権ではまた少し違うものだ。プログラムのコンテンツはそれ程変わらないかもしれないが、内面的に、正にアプローチだとか準備が違っている。

記者会見では、自分の何が変わったかと質問を受けた。確かに自分は変わった。しかし、これもまた全てが内面の非常に深いところで、これら全てをことばにすることは出来ない。そして ― もしこのように表現出来るとすれば ― 自分を捕まえ、自分をコントロールするこのプロセスが、毎回特別なものなのだ。テストスケートでも、ソチの第3戦も全てが同じだったということは無く、同じ滑りは決して無い。毎回、一定のシステムで調整しようとしているにもかかわらず」。

―もしかしたら、それはあり得ないことかもしれませんね。なぜなら、フィギュアスケーターは、それぞれの出し物を別々に演じ分ける俳優のようなものですから。

「もちろん、試合ごとに気持ちが変わるし、それも面白い」。

―ありがとう、ミーシャ。成功をお祈りしています。

  1. 2021/01/08(金) 23:34:16|
  2. フィギュアスケート
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

2020/12/29 アンナ・シェルバコーワ「私は非常に多くの医師たちの監視下にあった」

https://www.olympicchannel.com/ru/stories/news/detail/%D0%B0%D0%BD%D0%BD%D0%B0-%D1%89%D0%B5%D1%80%D0%B1%D0%B0%D0%BA%D0%BE%D0%B2%D0%B0-%D0%B2-%D1%82%D0%B5%D1%87%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D0%B5-%D0%BF%D1%80%D0%BE%D0%BA%D0%B0%D1%82%D0%B0-%D1%81%D1%82%D0%B0%D1%80%D0%B0%D0%BB%D0%B0%D1%81%D1%8C-%D0%B7%D0%B0%D0%B3%D0%BB%D1%83%D1%88%D0%B0%D1%82%D1%8C-%D1%8D%D0%BC%D0%BE%D1%86%D0%B8%D0%B8/

2020/12/29 アンナ・シェルバコーワ「演技中に私は感情をおさえようとした」

====一部抜粋=====

(タチヤーナ・フレイド)
―あなたがチェリャービンスクであれ程良い滑りが出来たのは、意志の力ですか、それとも心理的安定性のお陰ですか、どう思いますか?

アンナ・シェルバコーワ:「気持ちがものを言ったと思います。自分はこの全てを出来るのだ、と自分の気持ちを整えました。スタート時は、自分が出来ることの最良の事全てを思い出し、それを山のように集めて、それに加えて、冷静な頭で出て行きました。滑りの前も、滑っている最中も、何も緊張せずに。

通常、プログラムを滑り始めれば、その後は全て滑り込んだとおりに進みます。ここで私は流れを切ってはならなかったのですが、エネルギーをコントロールしなければなりませんでした。ある箇所では、滑りは最大限ではありませんでした。もし、言いがかりをつけるとすれば、幾つかのジャンプに入る際に、必要な入りを省きました。それはこのプログラムの最後までたどり着くためと、全てのジャンプを実行出来るようにするためでした。一瞬一瞬、自分をコントロールし、細かなことで動揺せずに、自分の状態を見極めながら、落ち着いて呼吸するようにしました。

ですから、滑っている間ずっと、最大限の集中力が続きました。さらに確かなことは、戦いのアドレナリンが助けになったと言えます。人々は、ストレスのかかった状況の中で自分が、何が出来るのか想像さえ出来ないかもしれません。このようなアドレナリンのおかげで、隠れていた能力が現れ、疲労感が少なくなるのです」。


―あなたは(ロシア選手権フリープログラムの)演技中に何らかの感情を感じましたか?

「私は起こっていることの全てを理解していましたし、あたかも自分の感情を押し殺すかのように努めました。当然ですが、二つの四回転ジャンプの後は嬉しかったのです。いえ、多分、最初のジャンプを跳び終わったら、もう嬉しかったのです。なぜなら、練習の時には、もし最初のルッツが跳べたら、その後のプログラム全部が上手く行っていたからです。

もし、最初のルッツが上手く行かないと、その後のプログラムは滑らないこともあり得ます。転倒して、起き上がる時には、多くのエネルギーを消耗しますし、速度も自信も失います。ですから、最初のジャンプが、プログラム全体のキーを定めたと言えるでしょう。それをやった時、私の中にある種の落ち着きが生まれました。次は(四回転)フリップに正しく合わせる必要がありました。それを跳んだ後は、喜びが生まれました。しかし、その喜びを押し殺さなければなりませんでした。なぜなら、これらの前半の四回転よりも後半の方がもっと困難になる可能性があることを分かっていましたから。

ですから落ち着きをキープし、感情を発散させないように努めながら、非常に集中して滑りましたし、多分、いつもの滑りよりも感情が控えめだったかもしれません。そして、後半に、特にステップシークエンスでは、もうエネルギーが無かったのですが、感情を出して、破裂して滑ろうとしました」。

―あなたは先に、試合を棄権するように勧められたと言いましたね。でも、一本だけ四回転を入れるとか四回転無しでプログラムを滑るというバージョンは検討しなかったのですか?

「ここで、このような(肺炎の病後のため、試合の準備をしていない)状態でまさに機能的に滑ることは私にとって、より難しいという時に、四回転ジャンプを成功させています。ジャンプを三回転にしてプログラムを滑ることは、私にとってそれ程容易なことではありません。なぜなら、プログラムの時間、ジャンプの数は同じだからです。私は基本的に四回転を削りたくありませんでしたし、削ることでプログラムが救われるだろうというのは事実ではありません。それで私の負担が軽くなることも無かったでしょう。したがって、そうすることはあまり意味が無かったのです。一方で欠場ということは、私は本当に考えてもいなかったのです」。

―あなたは重病を患いました。体に後遺症が出る危険は無かったのですか?

「私は非常に多くの医師たちの監視下にありました:私たちと一緒にリンクに常駐する医師たちも、普通の医師たちも私の状態を観察していました。私はしばしば、全力でのトレーニングを禁じられました。そのことで、負荷をかけ過ぎず、試合で最大限全力を尽くすことを考えて私たちが構築した準備方法に修正を加えることになりました。それは、後遺症を回避するために為されたことでした。

多くのアスリートたちは、困難な、私よりも悪い条件下でパフォーマンスをしなければなりませんでした。ですから、このこと(後遺症の心配)をあまり強調したくありません。私はこれから、いつもよりも多く休むでしょう。私たちは状態を見ていくことになります:いつ私が完全に恢復するかを。そうなったらトレーニングに着手するでしょう。その時は後遺症を回避するための制限無しでやっと練習出来るのです」。
  1. 2021/01/02(土) 15:56:09|
  2. フィギュアスケート
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0