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2015/09/09 フィギュアスケート最初の女子オリンピックチャンピオン、マッジ・サイアーズ没後98周年

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2015/09/09 フィギュアスケート。マッジ・サイアーズ物語

マッジ・サイアーズ(1881年9月6日〜1917年9月9日)は氷上で男子選手たちに勝って、金メダルをプレゼントされた。また膝丈までスカートを短くした。子供たちをトレーニングした・・・しかし、とても短い生涯だった。

2015年9月9日は、フィギュアスケートの最初の女性オリンピックチャンピオンが死去した日からちょうど98年目に当たる。フローレンス・サイアーズよりもマッジ・サイアーズとしてより有名だったこの女性は、ユニークなアスリートだった。フィギュアスケート最高の大会で全ての種目 — 女子シングル、男子シングル、ペア — でメダルを獲得したことで歴史に名を刻んだ。アイスダンスは彼女の時代には存在しなかった。残念だ。もしアイスダンスがあったなら、彼女は永遠に完全記録の保持者となっていただろうに。

[コーチと生徒]
マッジ・ケイフがスケート靴を履いたのは早かった。その時彼女はオリンピックチャンピオンになるなんてことは考えもしなかっただろう。スケートの英国スタイルは、柔らかな動きの「国際的」スタイルよりも、より強硬で、ジャッジたちには歓迎されていなかった。彼女が幸運だったのは、16歳の時に、彼女の教師になり、夫にもなり、唯一の愛人になる人物に出会ったことだ。エドガー・サイアーズ(まさに「国際的」スケート技術を身につけていた人物)は、少女の才能に驚嘆し、彼女の教育に自分のコーチとしての天分の全てを注ぎ込んだ。マッジを世界最高にすること、それが彼にとって第一の目標になった。そして徐々に「コーチと教え子」の関係が、他のもの — ロマンチックなものに取って代わった。エドガーの目の前でマッジは花開き、鮮やかな女性へと変身を遂げた。1899年彼らは結婚した。コーチは教え子よりも18歳年上だった。このようなカップルはフィギュアスケートでは珍しくなかった。ファンたちはしばしばオレーク・ヴァシーリエフやニコライ・モローゾフの仕事のメソッドを冷笑するけれども、世界で女子の教え子との親密な関係の先駆者は、彼らではなかったことは確かだ。ご覧のように、女子選手とコーチがその後夫婦になるという話は、既に19世紀から始まっていたのだ。

[男性への挑戦]
新しい世紀、そこで新たな目標が。マッジ・サイアーズには、自分の力をフィギュアスケート世界選手権 — 少し前に創設されたISUが主催して既に数年開催されていた — で試したいという願いが生まれた。有言実行:サイアーズは1902年の世界選手権にエントリーしている。当時、競技規則のなかに男子と女子の区別がなかった。というか正確にはISUがこの区分をする理由が分からなかっただけなのだが。強い性である男子の代表者たちと敢えて競技しようという女子がいるとは、スポーツ関係者の頭になかった。

しかし、サイアーズはリスクを取り、それが誤りではなかった:世界選手権で彼女はほぼ全ての男子ライバルたちを打ち破り、二位に入った。負けたのは偉大なウルリッヒ・サルコウにだけだった。公平さのために言えば、彼女の銀メダルは、五人のうち二人いた母国のジャッジの助け無しには難しかった。しかし、彼女の滑りに驚嘆したサルコウが — 現役時代に彼はこのような世界選手権金メダルを10個も貯めたのだが — マッジ・サイアーズに自分の金メダルをプレゼントしたという事実が、何よりも彼女の腕前を物語っている。後になって、有名な英国のジャッジ、トーマス・リチャードソンは、この行為についての情報を「噂に過ぎない」と否定したけれども。比較のために言えば、もしソチオリンピックチャンピオン、アデリーナ・ソートニコワが男子競技に出場したとすれば、自分の得点の224.59ポイントで彼女は15位にとどまっただろう。

このようなセンセーションの後国際スケート連盟は、規則の抜け穴を大慌てで埋め始めた。最初に、長いスカートはスケーティングスキルと演技の形のクリーンさをジャッジたちが評価する妨げになるとして、世界選手権の出場者メンバーから女子を排除した。「問題ありません」とサイアーズは言って、長年に渡って新しいトレンドになるスネを出すスカートを履いて滑り始めた。彼女はフィギュアスケート英国選手権で、・・・を破り、勝利することが出来た。あなた方は、きっと推測出来ただろう。自分の夫を打ち破って、と。しかし、すぐに世界選手権のプログラムに女子シングルスケートが登場した。マッジは、この世界選手権で二度優勝して、1908年のホームでのオリンピックに向けて準備を始めた。そこでは、彼女の好きな種目、ペアの競技が初めて登場することになっていた。

[ホームでのオリンピック]
もしあなたが、フィギュアスケートの大会でのジャッジたちに関する白熱した論争が比較的最近になって始まったと考えているとしたら、それは間違っている。主観的スポーツ種目における審判のスキャンダルは、種目そのものが存在した年月とほぼ一致して存在している。1908年ロンドンオリンピックはそれを証明している — ウルリッヒ・サルコウが有利になるようなニコライ・パーニン-コロメーンキンだけの厳罰。その後ニコライ・パーニンはフリースケーティングを棄権した。大会第二部「スペシャルフィギュア」からは、勝利へのチャンスが自分には何も無いと判断したウルリッヒ・サルコウ自身が棄権した。この話は一体非常に興味深いけれども、われわれは彼女の話に戻ろう。しかしロンドンでのサイアーズの演技への審判は、これには関係ない。その前の二回の世界選手権同様に彼女は問題なくオリンピックを勝利した。

平行してサイアーズ夫妻は、ペア競技に出場し、三位になった。但し、競技出場者3組中の三位だ。ペアスケーティングのクラスは競争には程遠いものだった。特にマッジの夫は、この時既に45歳だった。5人中の一人のジャッジ(英国のハリー・ファイズ)はそれでも彼らを二位に入れたが、残りの四人がより公正な決定を下した。

[心不全]
マッジ・サイアーズはロンドンオリンピックの後すぐに現役を引退した。彼女はいつだって健康に恵まれていた訳ではなかったが、ホームでのオリンピックに向けて彼女は精魂を込め、それが最終的に健康を損なうこととなった。彼女はスポーツに関する文献の執筆や、子供たちのフィギュアスケートの教育に専念する決心をした。残された命は短く、二冊の本を出版することが出来ただけだった:The Book of Winter Sports(1908)、The Art of Skating(1913)。二冊目の本を出版して四年後、マッジは心不全のため35歳でこの世を去った。

彼女の人生は短く、そして鮮やかだった。飛翔は突進的で、栄光は世界的だった。サイアーズは男性たちに挑戦し、フィギュアスケートの異なる種目でメダルを獲得し、打ち勝ち難いものとして去ることが出来た。世界のスポーツにおける貢献が評価されたことは、世界フィギュアスケート殿堂に、それが創設されて5年後に入ったことが証明している。彼女の立候補は議論の余地がなかった。ちなみにパーニン・コロメーンキンがこの殿堂に入れられたのは、33年後だった。


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