富士通パソコンFMVの直販サイト富士通 WEB MART ベネッセコーポレーション 進研ゼミ・こどもちゃれんじ あれこれ 2016/02/17 十年前プルシェンコはどのようにしてオリンピックチャンピオンになったか

あれこれ

2016/02/17 十年前プルシェンコはどのようにしてオリンピックチャンピオンになったか

http://www.sovsport.md/gazeta/article-item/884061

2016/02/17 ライバルたちの不在のなかで。十年前プリューシェンコはどのようにしてオリンピックチャンピオンになったか。

(アンドレイ・シモネンコ)
ちょうど十年前エヴゲーニー・プリューシェンコは、ロシア男子シングル競技史上最後のオリンピックチャンピオンになった。しかし、2006年2月16日にトリノで起こったことは、その時までの4年間に起こった歴史 — まさにソルトレイクシティーオリンピックでのエヴゲーニーの敗北 — の結末だったと言える。

存在しなかった勝利
そもそもプリューシェンコは2002年に勝利しなければならなかった。彼はその当時の主要なライバル、アレクセイ・ヤグージンよりも、少しだけだが技術的に強く、少しだけだがより芸術的で、少しだけだがより安定していた。しかしながら、もしその自分の優越性を四年間で最も重要な試合 — オリンピックで見せられないとすれば、これら全てのことは何の役目も果たしていない。

一方、自分の「少しだけ優れている」ことをオリンピックで披露出来なかった人たちというのは、フィギュアスケートの歴史のなかでは非常に多くいた。最も顕著な例は、おそらくカート・ブラウニングだろう。このカナダ人は、次々と世界選手権のタイトルを獲ったけれども、五輪の場になると、1992年にはヴィクトル・ペトレンコが、1994年にはアレクセイ・ウルマーノフが彼に勝った。彼らのせいだけではなく、四度の世界チャンピオンはとうとう一度もオリンピックの表彰台に乗らなかった。ファンは時として残酷になる:ある時などはカナダ国旗を結びつけた松葉杖が氷のブラウニングに投げつけられたりした・・・・

プリューシェンコは2002年ソルトレイクシティーオリンピックでメダルは獲れた。しかし、彼のコーチのアレクセイ・ミーシンと、三年前にヤグージンがミーシンから移って行ったタチヤーナ・タラーソワとの間に小さなスポーツ戦争が勃発しているという状況下では、一方にとっても他方にとっても、あるのはただ一位のみだった。

プリューシェンコはそれに向かって十分に自信を持って進んでいた:プレ五輪シーズンでは一度も負けていなかったのだから。しかしながら、オリンピックの一ヶ月半前のグランプリファイナルで突然、彼の主要ライバルが勝利したのだ。ミーシンは神経質になり始め、エヴゲーニーのフリープログラムを変更することを決めた。そして緊張が弟子にも拡がった:プリューシェンコはショートプログラムの四回転ジャンプで転倒し、その後オリンピックの運命は実質的に決まった。ヤグージンは、肯定的にも否定的にも有名な心理専門家ルドルフ・ザガイノフの助けもあって、ソルトレイクシティーで超人として出現した。ザガイノフに関して言えば、この専門家は2002年オリンピックで自分の教え子を助けただけでなく、そのライバルを妨害したとの見方も今日まで存在している。

トリノへの茨の道
とにかくエヴゲーニーと彼のコーチのトリノオリンピック前の主要な目標は、次のようなものだった:何らかの突発的なことを避けること。自分のコンデシション、自分の技術、自分の心理、自分の身体には完全に自信があった。しかし、2006年オリンピックに向かう準備の過程では、問題が起こった。プログラムの難易度を当時聞いたこともないようなレベルにまで持って行こうとする試みは怪我を招いた。腰、鼠蹊部、膝、アキレス腱 — こういった箇所が、さまざまなレベルで周期的にプリューシェンコに痛みをもたらした。

一方、アレクセイ・ヤグージンが競技スポーツから引退してからも、エヴゲーニーにはライバルとおぼしき選手たちはいるにはいた。2003/2004年シーズンのグランプリファイナルでは、カナダのエマニュエル・サンデユがプリューシェンコに勝利した — 正確にはエヴゲーニーが余計なコンビネーションを跳んで、自滅したのだ。同じシーズンのヨーロッパ選手権では、フランスのブライアン・ジュベールが彼を上回った。これ以外の全ての大会ではプリューシェンコは勝利を収めた — しかし、これら二つの敗北は、オリンピック勝利の保証は誰も与えてはくれないことを意味していた・・・・

トリノの金の運命に対する神聖視は、オリンピック一年前、2005年のモスクワ世界選手権で弱くなった。プリューシェンコは全シーズンを怪我で苦しみ、ホームでの世界選手権フリープログラムの前に棄権せざるを得なかった。問題が嵩じれば今後の出場が危ぶまれる程になったのだ。この年の春、彼はドイツで手術を受けた。ファンたちは、心配をしながらオリンピックシーズンの開始を待った・・・

しかし、明らかになったように、道の選択は完全に正しかった。プリューシェンコは回復し、初めはホームでのグランプリ大会、次にロシア選手権、その次にヨーロッパ選手権で説得力のある勝利を収めた。トリノへも当然の優勝候補として出発した。なぜなら、オリンピック三週間前のヨーロッパ選手権で、技術はあるが、新ジャッジシステムにあまり適応していないジュベールも、四回転ジャンプを習得したのにとうとうトリプルアクセルをものに出来なかった氷上のアーティスト、ステファン・ランビエールも、素晴らしいコンディションにあるプリューシェンコに近づくことも出来なかったのだから。海の向こうにも、優勝候補に挑戦状を叩きつけることの出来る選手は見当たらなかった。

確実性への賭け
オリンピック金の運命は、実質、競技開始前に決まっていた。しかし、それでもやはりエレメンツはやらなければならなかった。そしてプリューシェンコはそれをやり、ショートプログラム後にはもう誰がチャンピオンになるのかは誰にも疑いの余地が無かった。プッチーニの「トスカ」の音楽に乗せたプログラムでエヴゲーニーは、当時の新記録90.66点を獲得した。最も近いライバルのアメリカのジョニー・ウイアーは80点に過ぎず、ランビエールとジュベールはもっと低かった。

フリープログラムでエヴゲーニーはリスクを冒さず、確実性に賭けることが出来るのは明らかだった。常に彼の切り札だった最初の「4-3-2」を確実に跳び、全体的優位性を完全に意識してチャンピオンは、一つの四回転ジャンプを回避し、自分の「ゴッドファーザー」を滑り切った。何か全く大きな感情の揺れも無く、限りなき幸せの飛散も無く、誰も彼を凌駕することが出来ないことを理解しながら、観客に挨拶をした。

このオリンピックの後、プリューシェンコは引退した。しかし、完全にではなかった。最初は2010年のバンクーバーオリンピックに向けて戻り、次は2014年のソチオリンピックに向けて戻った。今や2018年ピョンチャンオリンピック出場を計画している。何が彼を突き動かしているのか、エヴゲーニーを良く知っている人たちでさえ、明確に本当のところを理解出来ていない。しかし、この質問の回答は、もしかして、プリューシェンコがオリンピックで勝利した直後のインタビューのなかに、あるのかもかもしれない。

「10年これに向かって行けば、彼らは諸手を挙げて金メダルを渡してくれるのだ」。当時、オリンピックチャンピオンはこう語っていた。

戦いへの渇望。そこにこそプリューシェンコのモチベーションがある。その渇望の源泉を辿れば、その多くは、まさに十年前の絶対的な勝利に行き着く。トリノでエヴゲーニーと戦うことが出来た選手たちは、降伏してしまった。戦う者たちに勝利することこそが喜びをもたらす。プリューシェンコの選手生活には、このような勝利は非常に多くあった。しかしながら、最も重要なオリンピックでは、実際のところ、その勝利はライバルたちが不在のもとでのものだった。

関連記事
スポンサーサイト
  1. 2016/02/19(金) 03:42:34|
  2. フィギュアスケート
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<2016/02/19 四大陸選手権、男子SP、ボーヤン・ジンが自己ベストで首位 | ホーム | 2016/02/16 マリーヤ・ソーツコワ「この試合で私は自分の性格を鍛えた」>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kurkuma.blog.fc2.com/tb.php/1745-0642f84e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
    </