あれこれ

2016/12/10 アリーナ・ザギートワ「両親は、アリーナ・カバーエワにあやかって私の名前をつけた」

 http://www.fsrussia.ru/intervyu/2658-alina-zagitova-roditeli-menya-nazvali-v-chest-aliny-kabaevoj.html
 
2016/12/10 アリーナ・ザギートワ「両親は、アリーナ・カバーエワにあやかって私の名前をつけた」
 
====一部抜粋====
 
(オリガ・エルモーリナ)
グランプリシリーズにデビューしたアリーナ・ザギートワは、ジュニアグランプリファイナルの勝利者になった。競技の後、彼女は自分の競技人生がどのようにして作られてきたのか、ホッケーチームのコーチである父親について、同じようにフィギュアスケートをやっている妹のサビナについて語った。またジュニア女王は、なぜ両親が彼女にアリーナという名前を付けたのか、その秘密を明かした。
 
—アリーナ、あなたは今年グランプリシリーズに初めて出場しました。それはどれ程困難なデビューでしたか、また不安を克服するのに何が助けになりましたか?
 
「私の性格は、困難であればある程、より良いという人間です。私のママもパパもそうなのです。パパはホッケーの仕事をしています。ホッケーチーム『イジスターリ』のコーチ、イリナス・ザギートフです。私が粘り強いのは、パパ譲りです。グランプリ大会の前は、もちろん、不安でした。だって、重要な大会なのですから。私は立派に滑らなければなりませんでしたが、それが出来て嬉しいです」。
 
—最初のグランプリ大会とファイナルと、どちらがより怖かったですか?
 
「二戦目のグランプリ大会です。初戦の時には、グランプリ大会が一体何なのかが良く分かっていませんでした。それに、私のことを誰も真面目に当てにしていませんでした。でも一位になったので、二戦目も良い滑りをして、ファイナルに行かなければならないと、初めて理解したのです。私にとって、それは心理的により難しいものでした」。
 
—パパはホッケーの仕事とあなたは言いましたが、ママは?
 
「ママはスポーツウーマンではありません。彼女はとてもフィギュアスケートをやりたくて何度か始めたのですが、上手く行きませんでした。ママは叶わなかった自分の夢を私で実現させたくて、そのために全てのことをやって来たのです」。
 
—ということは、あなたは小さい頃からリンクに連れて行かれたのですか?
 
「いいえ。私はとても良い幼児期を過ごしました。多くのフィギュアスケーターのようではありませんでした。私が専門的にフィギュアスケートを始めたのは、7歳からです。それまでは、ただ滑っていただけでした。始めてからも何度か止めました。6~7回くらい。趣味のようにスポーツに接していました:好きなら滑り、好きじゃなければ止める・・・」。
 
—フィギュアスケートが真剣な仕事だと理解したのは、いつですか?
 
「何かが上手く行くようになって、競技会に出場し始めた時です。10歳まで一度も表彰台に上ったことがありません。一度3位がありました。その後エテリ・ギオルギーエヴナ(・トゥトベリーゼ)のところに来て、全ては簡単なものではないと感じたのです」。
 
—どのようないきさつで彼女のところに来たのですか?
 
「それが面白いのです。私はモスクワの試合にやって来ました。そこではあまり良く滑れませんでした。でも私とママは、ずっと以前にエテリ・ギオルギーエヴナのグループに入りたかったのです。競技最終日に私たちはイジェーフスクの家に帰りましたが、私はママを説得しました:『お願いだから、トゥトベリーゼのところへ行こうよ』。でもそれは、モスクワの端と端でした。2時間半かかりました。でも行きました。
 
私は40分滑りました。なぜなら、汽車の時間があって急いでいたからです。エテリ・ギオルギーエヴナは言いました:『お正月過ぎにいらっしゃい。テスト観察をします』。私は既に彼女に採用されたかのように喜びました。いいえ、汽車の時間に間に合うように走らなければならなかったので、ちゃんと喜ぶ時間もありませんでした。汽車が動き出した時に、車両に荷物を投げ入れました。でも間に合ったのです。私はとても幸せでした!」。
 
—その後あなたはモスクワにやって来て、エテリ・ゲオルギーエヴナのところでちょっとトレーニングしましたが、彼女はあなたを追い出したのですね。
 
「そうです。私はとても落胆しました。一週間、去ることが出来ませんでした。私たちは、アンナ・ヴラジーミロヴナ・ツァリョーワのグループに入りました。なぜなら、最後の瞬間までトゥトベリーゼのグループに戻してもらうことを願っていたからです。私はその時怪我がありました。試合で足の裏を骨折したのです。スパルタキアーダには骨折した手で行ったのですが、その上さらに足まで骨折したのです。それで二週間イジェーフスクの家で休養しました。
 
休んだ後には氷上で何も出来ませんでした。滑りを初めから学びました。このようなことになった以上イジェーフスクに帰るべきだと、私と両親は考えました。花束を持って、エテリ・ギオルギーエヴナのところにお別れの挨拶に伺いました。私たちが感謝のことばを述べると、彼女は言いました:『もう一度試してみましょう』。私は喜び、幸せで飛び上がりました! 嬉し涙がこぼれた程です!」。
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  2. フィギュアスケート
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コメント

感謝

asappo様、感謝‼

Google翻訳の日本語訳は精度が良くなく英語翻訳を読んだりもするのですが、やはり意味を読み取れない部分もありましたので、翻訳して下さりありがとうございます。ウェブのロシア語辞書を引いたりもするのですが、やはり難しく・・・

アリーナ・ザギトワ選手とエテリコーチの出会いのエピソードが分かり、大変うれしいです。

こちらのかたの、エテリに追い出されたエピソードと合わせて、ザギトワ選手について、コーチや選手の考えを少し知ることができました。
http://ameblo.jp/ru-skate-memo/entry-12195201334.html

ありがとうございました。
  1. 2016/12/17(土) 12:42:39 |
  2. URL |
  3. 3Lz3Lo3T #-
  4. [ 編集 ]

asappo様

たびたびすみません。こちらの記事を引用させていただいてもよろしいでしょうか。備忘録代わりに細々と書いているブログです。
  1. 2016/12/20(火) 08:30:12 |
  2. URL |
  3. 3Lz3Lo3T #-
  4. [ 編集 ]

Re: タイトルなし

3Lz3Lo3T 様

お読み頂き、コメントも頂き大変ありがとうございます。
毎日記事をupするのが精一杯で、お礼をする時間がなく、
大変な失礼をしていること、申し訳なく思っています。
ごめんなさい。

記事はどうかご自由にお使いください。
ただ出所元の当ブログを明記して頂ければと思います。
よろしくお願い致します。
これからもお立ち寄りくだされば嬉しいです。
ありがとうございました。asappo

> asappo様
>
> たびたびすみません。こちらの記事を引用させていただいてもよろしいでしょうか。備忘録代わりに細々と書いているブログです。
  1. 2016/12/21(水) 03:11:31 |
  2. URL |
  3. asappo #-
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