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2017/03/03 ワレンチーナ・チェボタリョーワ「1~2年後ペテルブルクは男子シングルスケートで名乗りを上げる」

 http://www.online812.ru/2017/03/03/007/
 
2017/03/03 ペテルブルクが世界的レベルのフィギュアスケーターを排出出来なくなったのはどうしてか
 
====サンクトペテルブルクのサイト「online812」のワレンチーナ・チェボタリョーワへのインタビュー記事より一部抜粋====
 
(セルゲイ・ロパチョーノク)
ミハイル・コリャダーは2月で22歳になった。ワレンチーナ・チェボタリョーワにとってこのようなレベルの生徒は初めてだ。ロシアのフィギュアスケーターに何が起きているかについて彼女と話した。
 
—ペテルブルクのフィギュアスケーターたちはどこにいるのでしょうか? あなたの名だたる同僚たちは結果を出すことをどうして止めてしまったのですか?
 
「これは単に状況が重なっただけです。このようなことはスポーツではよくあることです:今日はある人たちが打撃を被り、明日は他の人たちが名乗りを上げる。今はモスクワの人たちの時ですが、私たちのところにだって多くの良いアスリートがいます。ただ彼らはまだジュニアなのです。
 
タマーラ・モスクヴィナの優れたペアには怪我がつきまとっています。ユーコ・カワグチについては、彼女は完全には回復出来ないだろうと言われていますが、彼女は真の闘士の性格をしていますから、来シーズンに向けて彼女とスミルノフは必ずや準備をするでしょう。
 
一方ロシアジュニア選手権ペアスケートでは、『スターアイス』学校(訳注:タマーラ・モスクヴィナが指導しているスケート学校)のアレクサンドラ・ボイコワ/ドミートリー・コズローフスキー組が優勝し、3位に入ったのもペテルブルクのフィギュアスケートオリンピック選手養成スポーツ学校のアリーナ・ウスチムキナ/ニキータ・ヴォロージン組でした。
 
ジュニア男子シングルでもペテルブルクの選手が1位と3位でした。ジーマ(ドミートリー)・アリーエフとイーゴリ・エフィームチュクはどちらもまだ17歳ですが、彼らは練習で3種の四回転ジャンプを跳んでいます — これは既に世界レベルですよ。ですから1~2年後にはペテルブルクは男子シングルで名乗りを上げるでしょう。
 
女子はより困難になるでしょう — モスクワのエテリ・トゥトベリーゼのところに非常に強い女子たちがいますから。しかし、私のところにも才能のある生徒 — スタニスラーワ・コンスタンチーノワがいます。彼女はロシアジュニア選手権で2位でした。
 
—ペテルブルクには何故アイスダンスペアがいないのでしょう?
 
「いつもいませんでした。伝統がないところには、結果もありません。この種目に取り組む情熱家のコーチが出現しなければなりません。シングルスケーターやペアのスケーターと一緒に働いている人は、誰もこの種目には適していません。アイスダンスには独自の特質があるのです。
 
かつて私のところに、ミーシャ・コリャダーと同じグループで始めた女の子がいました。7年間彼女と取り組みましたが、サーシャにはダンスの才能があると確信しました。両親にモスクワに行くようアドバイスしました。彼らは非常に優秀なコーチたちの面接試験を受け、イリーナ・ジュークのところに行くことになりました。イリーナは最初の日から、イワン・ブーキンとペアを組ませました。オリンピックチャンピオン、アンドレイ・ブーキンの息子です。彼らは今までずっと一緒に滑っていて、今年もヨーロッパ選手権でステパーノワ/ブーキン組は、5位になりました」。
 
—あなたは、もしフィギュアスケーターでなかったとしたら、どのようにしてコーチになったのですか? そのような例は、サッカーであるだけだと思いますが。
 
「私はフィギュアスケーターでしたが、プロフェッショナルではありませんでした。遅くなってから学び始めたのです。それはただ機会が無かったからなのです。私はレニングラード州のクラースヌィー・ボール村の出身で、テレビでフィギュアスケートを見て、やりたくてたまらなくなったのです。スケート靴を買ってコルピノまで私を連れて行って、とママにせがみました。近くにはスケート場など無かったのです。
 
そこに行くと、5~6歳の子供のグループがありました。私はほぼ10歳でしたが、きまり悪くはありませんでした。ママは、私を採用してくれるようにと頼み、家からの道を教えてくれました。それで私は、実質毎日自分で10kmの道を行き、10kmの道を帰りました。私は完全に我を忘れて練習し、一年で2~3級ずつ履行しました。それは全て自然の氷の上でした。人工の氷を初めて見たのは、かなり後になってレニングラード(サンクトペテルブルク)でのことでした。
 
時に連れて、フィギュアスケートで自分はかなりの高さ迄到達することはないだろうと理解しましたが、しかしスポーツマスター候補の規準は履行しました。そして自分のために決心しました:フィギュアスケートを放棄しない、と。それで私はレスガフト記念体育・スポーツ・健康国立大学に入学しました。
 
神が私に素晴らしい生徒たちを与えてくれるのだ、という思いが私から離れることは決してありません。40歳近くなって、生徒を定期募集した時に、グループのなかにミーシャ・コリャダーがいました。その時、私は出来ると分かっていました。そうでなかったなら、これらの生徒たちを誰かに引き渡していたことでしょう」。
 
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  1. 2017/03/05(日) 03:13:13|
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