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2020/01/09 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜6〜 — 渤海滅亡後の渤海人 —

http://rezerv.narod.ru/history/ussur-bohaipost.htm

2020/01/09 秋田市の古代水洗トイレ遺構と渤海国 〜6〜
                   —  渤海滅亡後の渤海人 —

[壊滅後の渤海人]
(契丹によって)粉砕された渤海人たちは、自分たちの敗北を受け入れなかった。旧王国の様々な場所で、反乱が次から次に発生する。926年、キダーニ(契丹)は征服した土地にドンダン(東丹)という国を作り、その国王にキダーニ(契丹)皇帝の長男トゥュイ(突欲=耶律突欲ィエリュイ・トゥュイ)が就いた。ドンダン(東丹)の統治下に入ったのは、渤海の若干の土地だけだった。トゥュイ(突欲)が新しい国を統治したのは短期で、930年には、自分の弟を父の王座に就かせないためにリャオ(遼)に移った。沿海州の土地はドンダン(東丹)には入らなかったが、リャオ(遼)に従属した。

渤海人たちを分断するために、キダーニ(契丹)は彼らを征服地から帝国の別の場所に移住させることにした。リャオ(遼)のカンチョウ(康州??)区は、渤海時代のシュアイビン(率實)府から移住した渤海人たちで作ることを、シー・ゾン(世宗)皇帝(947~951年)が定めたことは知られている。

渤海人たちは、あらゆる方法で自分たちの独立を復活させようと試みた。929年には、ダ(大)王族の代表者たちが後渤海国を宣言した。938年には、渤海の名門リエ(烈)一族が今の北朝鮮の地でジンアン(定安)国を宣言した。ジンアン(定安国)は長く独立を保てる運命には無かった。ウ(烏)氏を名乗る後渤海の大将は、この国を征服し、実質的に二つの国を統治し始めた。彼は渤海の旧上京を新たに復興した。後渤海は、長年に渡ってキダーニ(契丹)への戦いの前衛だった。

他の場所でも渤海人たちは、自分たちの独立を回復しようと試みた。いくつかの年代記は、北西渤海国に触れている。最後に渤海人たちは、1116年に大渤海を作り、自分たちの国家体制を復活させようと試みたが、その国は数ヶ月しか存在しなかった。

[契丹への抵抗]
リャオ(遼)に対する活発な闘争は、契丹人たちに渤海人たちを完全に征服することを許さなかった。侵略者たちによって作られたドンダン(東丹国)でさえ、独立してはいるが属国だと見做されていた。ドンダン(東丹国)の統治者たちは、渤海王たちがそうであったように、独自の統治モットーを持っていた。この国では、積極的に渤海の官吏たちを使用した。これら全てのことで、渤海人たちの抵抗を弱体化しなければならなかった。

後渤海もジンアン(定安国)も、 最初の30~40年はリャオ(遼)に対して積極的な戦いは行わなかった。それは力を蓄積する時期で、隣人たちとの関係を樹立した。975~987年にかけて渤海人たちは旧東京をキダーニ(契丹)人たちから奪還しようと試みた。976年にはリャオ(遼)に対する勝ち戦をした。この時迄に渤海人たちは、ジュルジェニ(女真)人たちと同盟の合意に漕ぎつけようとしている。これを予期してキダーニ(契丹)は982年、リャオ(遼)帝国に組み込まれていたドンダン(東丹国)を廃した。

渤海人たちの増強を危惧したキダーニ(契丹)は、ジンアン(定安国)を粉砕する決断をした。983年、彼らはこの国に対する攻撃を成功させた。多くの人々が殺され、住民二千人が朝鮮に逃げた。これは渤海に対する最初の懲罰的討伐軍だった。キダーニ(契丹)はジンアン(定安国)を征服しようとしたが、かろうじて騎馬隊が接近出来ない山々が、完全な壊滅から渤海人たちを救った。

これらの行動を通じて、渤海人たちの抵抗を摘み取ることが容易でないことを理解したキダーニ(契丹)は、渤海人たちに対する新たな討伐軍を入念に準備し、985~986年、ジンアン(定安国)を壊滅させた。生き残った渤海人たちは、ジュルジェニ(女真)人たちや中国人たちと同盟を結ぶことが出来、再びリャオ(遼)に対する戦いを開始する。988~989年、キダーニ(契丹)は、ジンアン(定安)の地に第三次討伐軍を送る。今度は人々を一斉殺戮し、集落を焼き払い、戦利品を分捕った。990年キダーニ(契丹)はさらに別の討伐軍を組織し、渤海人たちの抵抗を最終的に打ち砕いた。キダーニはジンアン(定安国)の北部の土地を征服し、朝鮮軍は南部の土地を占領する。

この後、百年以上渤海人たちはキダーニ(契丹)の支配下で暮らした。

[ウスリー市区におけるこの時代の史跡]
沿海州では、契丹人たちの居住跡は見つかっていない。この時期にここに住んでいた渤海人たちは、比較的独立を保っていたが、契丹人たちに賦課を支払った。賦課は不定期に送り届けられた。

10~11世紀の具体的資料を伴った定住地が、ザゴロドノエ村近くで発見されている。発見されたのは、まだ渤海時代に出現し、渤海国の滅亡後にも存在し続けた大きな集落だった。同様の定住地は、クロウノフカ村-アブリコソフスコエ村とパヴリノフカ村近郊(図中1)、コルサコフカ村とボリソフカ村-コルサコフカ村の間(図中5)でも発見されている。この時代、ウチョースノエ定住地(図中4)も存在し続けた。南ウスリースク土城跡でもこの時代のいくつかの遺物に出会う。後期ジュルジェニ(女真人)が自分たちの町を、渤海後(初期の女真)の定住地に建設した可能性もある。

渤海人たちの経済活動や生活は、以前のまま残っていた。ただ貨幣と瓦の模様の変化だけが、この時代と別の時代の定住地を見分けることを可能にする。

======昨年の11月に秋田市の高清水岡を訪れた際に、渤海人が使ったという古代水洗トイレ遺構を見て、渤海人は本当に豚を常食としていたのか、などという実にお粗末な興味から、このテキストを訳し始めましたが、とうとう渤海国が息の根を止められるところまで来てしまいました。国は滅びてしまいましたが、渤海の中心的役割を担った靺鞨人は、女真になり、女真は次に自ら満州人と名乗り、あの清という国を作りました。沿海州に取り残された女真は、今のウデゲ人、ナナイ人、エベンキ人、オロチ人などの先祖となったそうです。

結局、渤海人は牛、豚を頻繁に食べていました。イノシシも豚も基本的に同じものだけれども、安定的に食料にするのは飼育した家畜でしょう。渤海人は定住して主に農耕を営む民だったのでした。ついでですが、ロシア語で中国のことをキタイと言いますが、これは契丹のことだったのだと今回再確認しました。=====

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