楽天市場 あれこれ 2022/10/11 ヤングアダルト向けノンフィション時代小説「ヴィクトリア湾のほとりで」⑱
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あれこれ

2022/10/11 ヤングアダルト向けノンフィション時代小説「ヴィクトリア湾のほとりで」⑱

ヤングアダルト向けノンフィション時代小説「ヴィクトリア湾のほとりで」⑱
(ミハイル・ヂェメノーク Михаил Деменок作)

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歌に目がない百姓娘や若者たちも、戦時の今はもはやロノマレンコ爺さんの屋敷に集まることもなく、ラプタ遊び[ロシアのクリケットに似た球技]をすることもなく、ブランコに乗って揺らすこともなかった。ただ一人聾唖のアルセンチー・ブラコーフだけが、日曜日ごとに夕べの集いにやって来た。ドアの側の釘に羊の両面毛皮の長外套とカワウソの防水帽子を掛けると、自分のお気に入りの場所であるペチカの側の低い椅子に腰を降ろした。イワン・カルポーヴィチと妻のマラーニヤが家の仕事をやっている間、彼は黙ってチョウセンゴヨウの実をポリポリ齧りながら、仲間たちを待っていた。

アルセンチーは、オランダイチゴの丘近くのぽつんと離れた古い家に住んでいた。その家は、死んだ母親からの遺産だった。家はきちんときりもりしていた。馬の他に牛も飼っていて、自分で搾乳量も増やしたし、ブタも鶏もいた。一年中アルセンチーは、一人で狩猟をした。森の中での彼の変わらぬ連れは、二匹のぶち毛の犬で、それらは獣に対する訓練が良く出来ている上、氷の下からカワウソを捕まえることも出来た。エフィム・ダルニッツァと同い年のアルセンチーは、相変わらず独り者だった。聾唖者のところへ嫁に行く者がいなかった。

暑いほどに暖められて、清潔に整えられた部屋には、依然として誰も集まって来なかった。アルセンチーの忍耐もこれまでで、自分の不満を漏らし始めた。
「ぴゃ! ぴゃ!」。回らない舌で言いながら、椅子からいきなり腰を浮かし、両手を左右に広げながら、霜のレースが張り付いた窓の方へ顎をしゃくった。外はもう暗くなったのに、誰も来ないというのだった。

「不運なアルシューシャ[アルセンチーの愛称]。可哀そうにこの人は、友達や娘たちを恋しがっているけれど、今は皆腰を据えて長居出来るような時じゃないってことを分かっていないんだわ」。居座っている客を見ながら、マラーニヤは前掛けの端で涙を拭っていた。
「気が済むまで座らせてやればいい。彼には家族がいないんだから。結婚させればいいんだが。一体誰とさせればよいものやら」。イワン・カルポーヴィチはヤマネコヤナギの細枝を編んで作った肘掛け椅子に腰を降ろし、別に急ぎもせずに馬具を縫い始めた。


ある日の夕方、アルセンチーは狩猟用のラシャの半上衣を着たきりで帽子も被らず、色の浅黒い太ったロマの娘の手を引いて、家に飛び込んで来た。
「おお、聖母様、一体これはどうしたことで」。イワン・カルポーヴィチとマラーニヤは十字を切った。アルセンチーがこんなに輝いて幸福そうなのを、彼らは今まで見たことがなかった。顔を赤カブのように染めて、まるで美しい娘がするように微笑んでいる。反対にロマの娘は、何か不安そうだった。

「お爺さん、この猟師は何ていう名前なの」。ロマの娘は口を開いた。
「アルセンチー・モイセエヴィチ・ブラコーフじゃが、それがどうかしたかね」。イワン・カルポーヴィチはそう彼女に答えた。
「実はあたし、この人が好きなの。で、放浪生活をこれっきりお終いにして彼のところに残るって決めたんです」。太った娘はそう言うと、アルセンチーに接吻した。
「ディブィ! ディブィ!」。アルセンチーは、このロマの娘を胸に抱きしめた。
「見ろ、娘さんの愛情が嬉しくてたまらないんじゃよ。顔つきが変わっている。自分のところにお客に来てくれって言っているよ」。

イワン・カルポーヴィチは、馬具を脇に寄せて前掛けを外すと、ロマの娘の方へ近づいた。
「娘さん、名は何て言うんだね」。
「ザーラ。ザーラです」。
「ああ、ワルワーラじゃな[ザーラはワルワーラの愛称形]。ところでワルワーラ、お前さんは身寄りが無いのかね、それとも家族と一緒かね」。
「あたしは、一団から離れてアルセンチーのところで滞在していたんです。もし、あすこに帰ったら、あたしは連れて行かれてしまって、もうそれっきりアルセンチー・モイセエヴィチに会えなくなるわ。お爺さん、幌馬車隊が行ってしまう朝迄、ここにいさせてくれませんか」。
「哀れだね、いてもいいよ」。マラーニヤは、ザーラが長い毛皮外套と柔毛のショールを脱ぐのを手伝った。「お爺さんや、アルシューシャと一緒にロマたちのところへ行っておくれ。だけど、ワルワーラがうちに隠れていることは、おくびにも出しちゃいけないよ」。
「何て幸福が、アルセンチーに転がり込んで来たことか。娘さんは、見るところ、気立ても良さそうだし、つやつやしている」。爺さんは、肩に綿入れの半外套を羽織った。「さあ、行こう、若いの」。

しかし、当人は強情に広く足を広げて家の真ん中に立ち、微笑みながら、ロマの娘の顔の表情を見守っていた。
「惚れ込んだものよのう、娘から一歩も離れん。分からんのか、この馬鹿、お前のために骨を折ろうってのに」。イワン・カルポーヴィチは、ワルワーラに防寒長靴を脱いで暖炉に這い上るよう指図した。娘が暖炉上の寝台にたどり着くと、アルセンチーは自分が何をしなくてはならないかを理解したようだった。
「ディブィ、ディブィ」。彼はザーラに手を振ると、部屋から出て行った。

アルセンチーの家では一晩中、にぎやかな酒宴が行われた。気前の良いこの猟師は、焼いたクマの肉、イジューブル(大鹿)の足の冷たい固まり肉、大根おろし、歯ごたえの良いキュウリ、漬けたナシ、ミツバチの蜂房でロマたちをもてなした。主人のアルセンチーは、粘土製の水差しからひっきりなしに客たちのジョッキに葡萄酒を注いだ。客たちはこのようなもてなしに酔っ払い、歌を歌いながら踊り出し、床板がたわむ程だった。

「恐らく彼らは、このロシア中に轍(わだち)をつけ回ったことだろう。だけど、こんなお人好しには初めてお目に掛かったに違いない」。イワン・カルポーヴィチは思った。「構うもんか。飲むいい、食うがいい、陽気に過ごせ。その代わり、アルセンチーには、自分の妻が、家の主婦が出来るんだ。こうでもしなければ彼は、タバコの詰まっていないパイプのように、一人のままなんだから」。そして、ロマたちのジョッキに、シカの血のように赤い、泡立つ葡萄酒を注ぎ足し続けた。

朝方、ロマたちは不安になり出した。家中、屋敷中を走り回り、「ザーラ、ザーラ」と叫んだ。
誰よりも大きな声で叫んだのは、片方の耳に耳輪を付けた痩せた老人だった。しかし、ザーラの応えは無かった。すると、彼は家の主人に飛び掛かって言った。「ザーラは何処だ」。
「彼から離れろ。どっちみち、この家の主人は何もしゃべらんよ」。イワン・カルポーヴィチが中に割って入った。「多分お前さんのワルワーラは、匪賊かコサックかが捕らえて連れ去ったのかも知れん。彼らは、しょっちゅう、そういうことをするんだ」。
しかし、老人は聞こうとしなかった。彼の叫びを聞いて、かなり飲んでいたロマたちが、アルセンチーを制裁しようとして駆け寄って来た。

ロマたちが良からぬことを企んでいるのを見て取ったロノマレンコ爺さんは、壁から猟銃と弾薬帯を取り外すとアルセンチーに差し出した。
「もし、無事でいたかったら取れ」。
「ぴゃ! ぴゃ!」。アルセンチーは渋面をつくると、桶の中の食器が音を立てる程足を踏み鳴らした。脅しのために彼は、天井に向かって一発発砲さえした。そのため、漆喰の塊がロノマレンコ爺さんの禿げた頭に音を立てて落ちた。大騒ぎの一団となったロマたちは、激怒した猟師から離れて、屋敷の庭へと飛び出した。そこには馬を付けた幌馬車が何台か彼らを待っていた。馬たちは鼻息を立て、軽快なだく足で新雪を蹴散らし、ロマの一団を運び去った。この時ザーラは、凍った窓にしがみついて幌馬車隊と老人の方を目で追いかけて、涙を拭いながら「さよなら、父さん、さよなら」と、つぶやいていた。

翌日、朝早くアルセンチーは、ロノマレンコ爺さんの屋敷へ橇で滑り込んだ。羊毛の長外套にザーラをしっかりくるむと、クマのように彼女を一抱えして、店に買い物に連れ出した。
彼は売り台の上に、クロテン、カワウソ、ミンクの毛足が長く遊んでいる獣皮を並べてから、主人に、アルコールの瓶を4本、花柄の絹の長い上衣、スカーフ、丸い鏡、中国の美女たちが描かれているルボーク版画を何枚か出すよう頼んだ。
「シャンゴン!」。獣皮を見て満足したファン・リンは、この猟師の前に商品を並べた。

この時、店のドアが、ばたんという音と共に大きく開き、湿った熱気の渦巻きと一緒に、アルセンチーの甥であるニコライ・ブラコーフが入って来た。彼は、広い肩を雪のように白い羊毛の半外套で包み、頭にはジャコウネズミの帽子、足にはシカの毛皮のブーツという派手ないでたちをしていた。ヤギのような顎鬚からつららをもぎ取りながら、居丈高な調子で口を開いた。
「おやおや、ここにおいででしたか、耳詰まりの人も」。
「そんな言い方をして、人を馬鹿にしてはいけません」。ザーラは黒い目を光らせた。
「ジャーナ?[気取ってフランス語の女性の名前Jannaなど言っている]」。ブラコーフの霜の降りた眉が丸くなった。「これは、別嬪さん。全くその通りですな」。
「別嬪だけど、あなたのためのものじゃないわ」。ザーラはアルセンチーの手を取った。
「ディブィ! ディブィ!」。アルセンチーは、ブラコーフの肩を親し気に叩いた。
「立ち寄るよ。必ず立ち寄るよ」。
「何ですって」。ザーラの目が先刻のように光った。「敷居を跨がせないよ、あんな失礼な呼び方を平気でする人は」。
「怒らないで、別嬪さん。アルセンチーは、私の叔父に当たるんですよ。あだ名のことは、ここではそれで呼ぶのが当たり前のことになっているんだ。例えば、僕はニコライという名前だけど、ヌイレーツ[潜水夫]と呼ばれている。別嬪さん。それはね、川の囲いの中で潜って網を引き上げる時に、自分自身が魚の代わりに引っかかってしまったからなんだ。有難いことに、土地の者がちょうど良い具合に馬を走らせて来て、ながえを差し出してくれたという訳なんですよ」。
「いいわ、甥御さんだと言うなら、どうぞおいでください」。ドアを閉めながら、ザーラは言った。

「イグナート、何処にいるんだ」。ブラコーフは下男を呼んだ。すると直ぐに、がっしりとした背の高い男が、脇の下にかます2俵を抱えて、ドアの中に踏み込んで来た。
「それ大男、お前は力持ちだ。ほら、一杯やれ」。ブラコーフは木のジョッキにアルコールを注いだ。イグナートは一気に飲み、喉を鳴らし、前掛けの端で唇を拭うと橇の方へ出て行った。下男が、この商人が運んで来た小麦粉、皮革、蜂蜜、ラードといった商品の荷下ろしをしている間に、何人かの兵士の妻たちが店に入り込んで来た。彼女たちは、太鼓腹の商人を取り囲んで、哀れげに懇願した。
「ミローヌィチ、ねえミローヌィチ、小麦粉の値段を安くしておくれよ。1プード[16.38キログラム]、1ルーブルにしておくれよ。つい先だって迄そうだったじゃないの」。

アレーナ・プロスタキーシャは、涙を流した。
「うちのガヴリューシャは、ドイツ人たちに殺されたんだよ。私は4人の父無し子と一緒に残されたんだ。スープを作るのに炒った木の実やどんぐりをラード代わりにしているんだよ。フスマでどうにかこうにかしのいでいるのさ。憐れんでおくれよ、ミローヌィチ。あんたのために神に祈り続けるから、何とぞお恵みを」。
しかし、この商人に人の良さは無かった。
「おやじが安売りするなと命じたんだ。小麦粉1プード当たり2ルーブルの勘定だよ。それ以下では御免だよ」。
「満腹の者には、飢えた者の気持ちは分からないよ」。アレーナ・プロスタキーシャは絶望的に手を振った。
「お前さんたちなど、くそくらえだ」。商人は唾を吐いた。「騒ぎ立てないでくれ」。そう言うと、ファン・リンが出して並べた札束の上にかがみ込み、前回配達した商品の売上高を念入りに計算し始めた。
(つづく)

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